心に残った本(2018年)

 年明けから『言語と呪術』(井筒俊彦英文著作翻訳コレクション)の刊行を待ち続けた。
 9月になってようやく入手したものの、井筒俊彦のあの文章のコクがなく(翻訳だから仕方がないか)、中身もいまひとつ鮮烈さに欠けて物足らず(後半に入ってから俄然面白くなってきた)、いまだ読み切れないでいる。
 むしろ安藤礼二さんの解説(『折口信夫』所収の「言語と呪術──折口信夫井筒俊彦」を書き直し、増補改訂したもの)の方が面白かったので、(朝日新聞椹木野衣さんの書評につられて)『大拙』を電子書籍版で購入し読み始めた。
 『言語と呪術』『大拙』の二冊(と、これも電子書籍版の原�咸『それまでの明日』の三冊)でもって年を越すことになる[*]。


 読み終えることができない本といえば、永井均さんの『存在と時間──哲学探究1』の読了がまた持ち越しになった。今年刊行された『世界の独在論的存在構造──哲学探究2』もほとんど手つかずのまま(Web春秋連載時に断続的に読んではいる)。
 かつて柄谷行人さんの本が、何度読み始めても途中で勝手に思考が展開してしまって、なかなか最後まで読み切れなかった。無理に読むと頭がフリーズして、現実生活に帰ってこれなくなりそうになったこともある。


[*]これ以外に図書館で借てきりた「年越し本」が数冊、どれだけ読めるかわからないが目の前に並んでいる。


子安宣邦『漢字論──不可避の他者』
・大熊昭信『存在感をめぐる冒険──批判理論の思想史ノート』
・鈴木薫『文字と組織の世界史──新しい「比較文明史」のスケッチ』
・トッド・E・ファインバーグ/ジョン・M・マラット『意識の進化的起源──カンブリア爆発で心は生まれた』
・奥山文幸『幻想のモナドジー──日本近代文学試論』
・デイヴィッド・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争


三浦雅士『孤独の発明 または言語の政治学
●森田真生『数学する身体』


 今年読んだ本の中でいちばん面白かったもの。
 三浦本は『群像』連載時から気になっていた。第二部「孤独の発明 または彼岸の論理」の刊行が待たれる。
 森田本は、昔『考える人』(2015年05月号)の記事を読んでなんとなく分かった気になっていたが、文庫化をきっかけに手にしてみた。素晴らしい。


●樋口桂子『日本人とリズム感──「拍」をめぐる日本文化論』
●森山徹『モノに心はあるのか──動物行動学から考える「世界の仕組み」』


 今年読んだ本のなかで先の二冊に次いで印象深かったもの。
 以下の次点五冊のうち、中井本はあと一歩で今年の「発見」になったと思う。


中井正一『美学入門』
中沢新一『アースダイバー 東京の聖地』
◎斎藤慶典『「東洋」哲学の根本問題──あるいは井筒俊彦
檜垣立哉『瞬間と永遠──ジル・ドゥルーズの時間論』
◎渡仲幸利『観の目──ベルクソン物質と記憶』をめぐるエッセイ』


●熊谷高幸『日本語は映像的である──心理学から見えてくる日本語のしくみ』
大澤真幸永井均『今という驚きを考えたことがありますか──マクタガートを超えて』


 Web評論誌「コーラ」に連載している「哥とクオリア/ペルソナと哥」で、今年の後半は「和歌体験と映画体験」に取り組んだ。(掲載は再来年になると思う。)
 熊谷本は議論の端緒をひらいてくれた。
 大澤・永井本は、大澤論文「時間の実在性」の中でとりあげられた「ヒッチコックモンタージュ」をめぐる話題が、議論の最終局面で役に立った。
 他に読んだ関連本も記録しておく。


松浦寿輝『平面論──1880年代西欧』
エイゼンシュテイン『映画の弁証法
◎福尾匠『眼がスクリーンになるとき──ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』
◎『ロラン・バルト映画論集』
加藤幹郎ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』
◎淺沼圭司『二〇一一年の『家族の肖像』──ヴィスコンティデカダンスとしての「近代」』
前田英樹『映画=イマージュの秘蹟
宇野邦一『映像身体論』


 ちなみに、来年のテーマは「日本語」。参考文献として読んだものを記録しておく。


小浜逸郎『日本語は哲学する言語である』
◎古田徹也『言葉の魂の哲学』
◎出岡宏『小林秀雄と〈うた〉の倫理──『無常という事』を読む』
◎出岡宏『「かたり」の日本思想──さとりとわらいの力学』
子安宣邦『「宣長問題」とは何か』(再読)
柄谷行人『日本精神分析』(再読)


白井聡『国体論──菊と星条旗
橘玲『朝日ぎらい──よりよい世界のためのリベラル進化論』


 他に、矢部宏治『知ってはいけない2──日本の主権はこうして失われた』を読んだ。


川端康成『反橋・しぐれ・たまゆら


 他に、『漱石文芸論集』や石牟礼道子苦海浄土 わが水俣病』も心に残った。


ジェイムズ・ジョイスユリシーズ?〜?』(丸谷才一・氷川玲二・高松雄一訳)
マルセル・プルースト失われた時を求めて1〜10』(井上究一郎訳)


 『ユリシーズ?』を読んだのが1997年で『失われた時を求めて6』が1999年。それ以来中断していたのを今年後半から再開して年末までに読み終えた。
(いま読んでいるパヴェーゼ『祭りの夜』(川島英昭訳)も、2013年のトリノ旅行後に読み始め中断していたもの。)
 来年はできれば『源氏物語『夜明け前』『死霊』『チェホフ全集』を仕上げたい。
 他に、カズオ・イシグロ夜想曲集──音楽と夕暮れをめぐる五つの物語』(土屋政雄訳)とリチャード・パワーズ『舞踏会へ向かう三人の農夫』上下(柴田元幸訳)を読んだ。
 

月村了衛『機龍警察 自爆条項[完全版]』


 エンターテインメント系ではリー・チャイルドが拾い物だったが、年末に読んだ月村本がよかった。


ダヴィド・ラーゲルクランツ『ミレニアム5──復讐の炎を吐く女』
◎ユッシ エーズラ・オールスン『特捜部Q──自撮りする女たち』
◎マーク・グリーニー『欧州開戦』1〜4
◎マーク・グリーニー『暗殺者の潜入』
◎リー・チャイルド『パーソナル』
◎ニコラス・ペトリ『帰郷戦線──爆走』

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 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  第48章 錯綜体/アナロジー/論理(その2)
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  第49章 錯綜体/アナロジー/論理(その3)
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  中原紀生
  前章で抜き書きした文章(『日本のレトリック』)の中で、尼ヶ崎彬氏は、
 「縁語」をめぐって次のように書いていました。「一つの語を一つの鏡に喩え
 てもよい。無数の鏡が一見無秩序に置かれているように見えながら、一筋の光
 が射しこむ時、たちまち鏡は互いに光を反射して、数えきれぬ光の糸が空間の
 中に光芒の伽藍を敷設する。銀河のようなこの光の領域が一首の和歌の世界な
 のである。」
  これを読みながら、私が連想もしくは想起していたのは、市川浩氏の「星雲
 状複合体(ネビュラス・コンプレックス)」という語であり、また、かつて
 (第10章で)引用した「言葉と音楽」(『みる きく よむ』所収)で、レ  
 ヴィィ=ストロースが忘れられた思想家・シャバノンの音楽理論を「(ボード
 レール的)万物照応の原理を大きく広げるような、ひとつのみごとなイメー
 ジ」と讃え、「(意識の類似物としての)蜘蛛の巣のイメージ」に喩えていた
 ことであり、そして、以前(第7章で)「伝導体[conducteur]のうちに無数
 に張り巡らされた、蜘蛛の糸や脳神経細胞を思わせる導管[duct]を伝って何
 かが、たとえば「情報」が縦横無尽に往来する…伝導という「推論」の運動」
 云々と書いた、自分自身の文章でした。
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 ●連載〈心霊現象の解釈学〉第14回●
  心霊スポット――通過儀礼と神話的暴力
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  広坂朋信
  「古代ギリシアては、冥府へ下る入口だといわれる場所がいくつもあった。
 私たちが目覚めているときの生活もまた、いくつもの隠された場所に冥府へ下
 る入口のある土地であり、夢が流れ込んでくる目立たない箇所に満ちてい
 る。」(ベンヤミン「パリのパサージュ2」、『ベンヤミン・コレクション6
 断片の力』ちくま学芸文庫より)
  心霊スポットについては、以前この「コーラ」にも書かせていただいたよう
 な気がしていたが、今バックナンバーを確かめると私の思い違いであった。近
 年、小野不由美残穢』(新潮社)の映画化(竹内義洋監督、2016)、川奈ま
 り子『実話怪談 出没地帯』(河出書房新社、2016)、吉田悠軌『怪談現場東
 京23区』(イカロス出版、2016)、澤村伊智『ししりばの家』(角川書店
 2018)、松原タニシ『事故物件怪談 恐い間取り』(二見書房、2018)などの
 ヒットもあってか、すでに引退した心霊スポット・ライターの私にも久しぶり
 にお座敷がかかって、人前で何か話さなければならないことになった。その心
 覚えのために、あらめて心霊スポットについて考えていることをここに書き出
 しておく。
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 ●連載「新・玩物草紙」●
  眼鏡/投壜通信  
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-40.html


  寺田 操
 《女の眼鏡はごくかすかな音をたてて割れました。》と書きだされた武田泰
 淳「めがね」『ニセ札つかいの手記』(中公文庫/2012・8・25)で
 は、近眼同士の男女の恋の行方に「眼鏡」が影を落とした。女は眼が悪いの
 に、男の前でも仕事場でも眼鏡はかけていなかった。男のほうは、《眼鏡は命
 から二番目に大事なもの》というほど強度の近眼だ。二人が一泊旅行した先の
 岩苔の公園で、珍しくサックから眼鏡をとりだした女は、風景を見まわしてか
 ら男との間のコンクリートのベンチに眼鏡を置いた。小さな事件が起きた。男
 が不注意に動かしたトランクの下で薄いレンズは砕けてしまったのだ。眼鏡を
 買ってあげると男は約束したのだが、女は病に倒れ……。
 (Webに続く)
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 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●

  
  第46章 錯綜体/アナロジー/論理(その2)
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  第47章 錯綜体/アナロジー/論理(その3)
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  中原紀生
  ■アリエッティ拾い読み
  前章で引用した丸山圭三郎氏の文章(「深層意識のメタファーとメトニ
 ミー」)に、「深層の言葉の特徴である音のイメージを媒介とした連合関係」
 が、精神分裂病に特有の論理(推論)に通じていて、それをアリエッティ
 「古論理的(パレオロジカル)」と呼び、フォン・ドマールスは「擬論理的
 (パラロジカル)」と呼んだ、と書いてありました。
  アリエッティの「パレオロジカル」という語に接したのは、記憶に残るかぎ
 り鶴見和子著『南方熊楠・萃点の思想』が最初で、そこでは、西欧自然科学の
 「因果律」と仏教の「因縁」を格闘させ、必然性と偶然性とを同時にとらえる
 独自の方法モデル(「南方曼陀羅」と「移動する萃点(=交差点)」)を編み
 出した(105頁)熊楠の思考が、アリエッティやパース(偶然主義)やユング
 (マンダラ・シンボリズム)と並べて論じられていて、とても刺激的でした。
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 ●連載〈心霊現象の解釈学〉第13回●


  自由間接話法と中動態
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  広坂朋信
  前回まで、中村雄二郎真木悠介の用語法に引きずれて「アニミズム」とい
 う言葉を使ってきたが、中村のあげるバリ島の魔女ランダにしても、真木の描
 く石牟礼道子氏の姿にしても、アニミズムというよりはシャーマニズムという
 言葉を使った方が実態に近いかもしれない。もちろん、「アニミズム」にせよ
 「シャーマニズム」にせよ、その言葉自体は人類学者・民俗学者宗教学者
 観察者によってつくられた、理解のためのモデルであって、当事者の実態とは
 ズレが生じるだろうことは当然である。そのうえでなお、アニミズムよりは
 シャーマニズムだろうと私がいうのは、憑依ということを問題にしたいからで
 ある。いささか独断的に言ってしまえば、心霊現象と呼ばれるもののうち、憑
 依こそは最優先で考察されるべきものである。
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 ●連載「新・玩物草紙」●


  無言歌/山本陽子の眼、草間彌生の目
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  寺田 操
  『生の根源をめぐる4つの個展 ―篠原道生展・山本陽子展・岡崎清一郎
 展・春山清展』(足利市立美術館2017・8・4)を開きながら、本棚から
 黒地に赤の『山本陽子遺稿詩集』(編集=坂井信夫・中村文昭・七月堂/19
 86・5・20)をとりだしてみた。山本陽子について何本かのエッセイや書
 評を書いたことがあったのだが、遺稿を前にすると、いつも戸惑いが生じてい
 た。生きている死者(詩人)から、解読を拒まれているような視線を感じるの
 だ。
 (Webに続く)
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 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  
  第45章 錯綜体/アナロジー/論理(その1)
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-45.html

  中原紀生
   貫之現象学を織りなす諸相群の基底となるA層。その第一の相は、「錯綜
 体/アナロジー/論理」の三つの項で構成されます。以下、順次、概観します
 が、その前に、いわばウォーミング・アップとして、伊藤亜紗著『目の見えな
 い人は世界をどう見ているのか』の議論を引きます。
  いわく、美学とは「言葉にしにくいものを言葉で解明していこう、という学
 問」(25頁)である。「言葉にしにくいもの」の第一位は質的なものをとらえ
 る感性のはたらきで、感性的認識は身体のはたらきである。第二位は芸術。芸
 術作品にも身体は密接にかかわってくるのであって、美学の究極形態は「体に
 ついて(言葉で分析したものを)体で理解する」(26頁)ということだ。それ
 は「身体一般」などという実在しないものをめぐる抽象論ではない。普遍と個
 別の中間あたりで体をとらえ、身体一般の普遍性が覆い隠していた「違い」を
 取り出そうとするものである(28頁)。
  この「新しい身体論」(新しい美学)の最初のリサーチの相手として、著者
 は「見えない人」に白羽の矢を立てました。以下、私自身の手控えとして、伊
 藤氏の著書からいくつか、琴線に触れたところを抜粋します。

 (Webに続く)http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/uta-45.html

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 ●連載〈心霊現象の解釈学〉第12回●

  不完全な交渉 
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/sinrei-12.html
 
  広坂朋信
  前回、中村雄二郎小松和彦の往復書簡『死』(岩波書店)から、中村のア
 ニミズム理解、その形而上学的表現である逆光の存在論を取り上げた。これ
 は、私にとっての心霊現象、私に立ち現われてくる幽霊をいかに語るかという
 このエッセイの課題からは脱線のように見えるかもしれないが、そうでもな
 い。
  中村の逆光の存在論をいささか独断的に敷衍するならば、死は生者にとって
 絶対他者の領域、絶対の異界である。亡霊とは、この絶対の異界からこの世に
 立ち現われるエージェント、相対的他者である。私たち生ける者は、このエー
 ジェントとの交渉を通して、絶対他者の領域を予感する。しかし、亡霊は相対
 的他者としてしか現れないため、その交渉はいつも不完全である。この不完全
 さにはいくつかのヴァリエーションがあって、それに応じて死者をめぐる物語
 の類型が生じる。それらは必ずしも怪異体験談とは限らない。

 (Webに続く)http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/sinrei-12.html

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 ●連載「新・玩物草紙」●

  ヴァージニア・ウルフ/爪をめぐる不思議な冒険
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-38.html

  寺田 操
  ヴァージニア・ウルフがモデルの映画『めぐりあう時間たち』(2002、
 米、監督=スティーブン・ダルドリー/主演ニコール・キッドマン)をBSで
 見た。1923年ロンドン郊外、病気療養中のヴァージニア・ウルフは「ダロ
 ウェイ夫人」の執筆をはじめる。当時、神経を病んで彼女は、夫とともに田舎
 に移りすんだが、退屈な田舎暮らし、町への外出禁止、使用人たちに監視され
 ているような生活に、病いを深くしていた。都会のような刺戟がないのが何よ
 りも辛いのだ。静かな場所が精神状態を慰藉してくれるというわけではない。
 ロンドンへ帰ろうと黙って家を出た彼女を追って駅までさがしにいく夫。田舎
 生活を切り上げたふたりはロンドンへ戻るのだが、彼女は入水自殺する。

 (Webに続く)
 http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-38.html

心に残った本(2017年)

正岡子規『獺祭書屋俳話・芭蕉雑談』『歌よみに与ふる書

 今年の「発見」は正岡子規。きっかけは、小森陽一著『子規と漱石──友情が育んだ写実の近代』。
 まず俳論・歌論からと思って、岩波文庫で『獺祭書屋俳話・芭蕉雑談』『歌よみに与ふる書』と読み進め、年をまたいで『俳諧大要』を読んでいる。面白い。文章が生きて跳ねている。
 子規論では、小森本のほか、中沢新一の「陽気と客観」(『ミクロコスモス2』)が面白かった。ネットで見つけた芸術人類学研究所のシンポジウム「正岡子規と《写生》の思考」での中沢や小澤實の発表が刺激的だったので、この二人の共著『俳句の海に潜る』を読んでみたら、これもまたすこぶる面白かった。
 その他、長谷川櫂『子規の宇宙』、森まゆみ『子規の音』も記憶に残った。


中沢新一『熊を夢見る』『虎山に入る』

 今年は中沢本にたくさんの刺激を受けた。『ミクロコスモス1・2』に続く二冊の小曲集は、極上の短編小説の味わいだった。
 他に『レヴィ=ストロース 野生の思考』と、松岡正剛赤坂真理・齋藤環との共著『「日本人」とは何者か?』が記憶に残った。
 今年の2月、大阪の北御堂で内田樹中沢新一・釋徹宗の三氏が出演する公開シンポジウム「儀礼空間の必要性とはたらき」があった。残念ながら参加出来なかった。
 その替わりというわけではないが、12月、京都のジュンク堂で催された内田樹・安田登の公開トークに出かけた。『変調「日本の古典」講義』の続編につながる、とても怪しい対談だった。
 安田師の『あわいの時代の『論語』──ヒューマン2.0』『能──650年続いた仕掛けとは』も記憶に残った。来年は古事記論が刊行されるという。


●渡辺恒夫『夢の現象学・入門』

 Web評論誌「コーラ」に連載している「哥とクオリア/ペルソナと哥」が新段階(泥沼?)に突入した。
 昨年から今年にかけてヴァレリーの「錯綜体」の概念から「アナロジー」「論理」と進み、今年は「夢」に始まり「パースペクティヴ」を経て、来年にかけて「時間」へ。その後、「映画」や「記憶」に取り組んだ後で、日本語の深層に存在する「やまとことばの論理」((c)中野研一郎)へと進む予定。

 渡辺本以外に刺激を受けた(か役に立ったか、それほど刺激は受けずあまり役に立たなかったがヒントは得た)参考書を挙げておく。(次の項目に挙げた國分本、池田・福岡本からも多大な刺激を受けた。)


◎『ヴァレリー集成2〈夢〉の幾何学』巻末の「解説」(塚本昌則)
オギュスタン・ベルク『風土の日本──自然と文化の通態』(篠田勝英訳)
木岡伸夫『邂逅の論理──〈縁〉の結ぶ世界へ』
◎カルロ・セヴェーリ『キマイラの原理──記憶の人類学』(水野千依訳)
◎湯浅泰雄『身体論──東洋的身心論と現代』
真木悠介『時間の比較社会学
◎中野研一郎『認知言語類型論原理──「主体化」と「客体化」の認知メカニズム』
◎山田哲平『反訓詁学――平安和歌史をもとめて』


國分功一郎『中動態の世界──意志と責任の考古学』
●池田善昭・福岡伸一福岡伸一、西田哲学を読む──生命をめぐる思索の旅 動的平衡と絶対矛盾的自己同一』

 偶然、この二冊の書物を連続して読んで、そこにとても深い繋がりがあるのを発見して興奮した。
 それは、『中動態の世界』のプロローグに書かれていることが、『福岡伸一、西田哲学を読む』の中核をなす西田幾多郎の「逆対応」をめぐる議論と結びついていて、そしてそれは、(松岡新平著『宴の身体』の第11章「紀貫之世阿弥」に書かれていた)「見つつ・見られる関係性」の議論に接続される、ということだった。
 これについては、機会があれば(その気が充満すれば)このブログに書いてみたいと思っている。


※國分本の読後感想文が、図らずも最近書か(け)なくなった「書評」めいたものになっていたので、自己引用しておきます。

《依存症から抜け出すのは本人の努力しだい。誰かから強制されたわけではないのだから、あとは本人の自由意思の問題。そんな「能動態/受動態」(あるいは「自由意思/強制」)のパースペクティヴで物事を考えるようになったのは比較的最近のことで、かつては、(たとえばホメロスが神々と英雄の物語を朗誦し、海月なす漂へる時に葦牙の如く萌え騰る物によりて神が成った頃には)、「中動態/能動態」のパースペクティヴが基本だった。
 著者はバンヴェニストアレントの議論を参照し、途中に言語と思考の関係、言語(文法)の歴史といった興味深い議論を挿入しながら、失われた中動態の世界を探求していく。ハイデガードゥルーズ、そしてスピノザの思考の根本に中動態的なものを見出し、メルヴィルの遺作『ビリー・バッド』の読解をもって書物を閉じる。
 豊饒な中身をもった魅力的な著書。読後、物の見方(パースペクティヴ)が回転する。》


●篠田英朗『ほんとうの憲法──戦後日本憲法学批判』

 この本は、ほんとうに面白かった。目から鱗がおちた。法学部の学生だった頃に読んでおきたかった。
 関連はしないが、他に人文・社会系で記憶に残った本を挙げておく。


加藤典洋『敗者の想像力』
◎『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震
◎ジョン・エリス・マクタガート『時間の非実在性』(永井均訳・注解と論評)
◎山田陽一『響きあう身体──音楽・グルーヴ・憑依』


絲山秋子『離陸』
カズオ・イシグロ日の名残り

 同時に読んだ『騎士団長殺し』(村上春樹)よりも『離陸』の方が面白かった。謎が解き明かされず謎のまま残る。この(人生そのものと言ってよい)感覚がいつまでも後を引く。
(同様に謎が謎のまま残る村上本も面白かったし、村上春樹はもう何だって書ける域に達したと驚嘆させられもしたが、それでも絲山本の方が面白かった。)
 ノーベル賞受賞を知って、8年ぶりに続き(後半)を読んだ『日の名残り』は、これが小説を読む愉しさだ、としか言いようがない極上の経験を与えてくれた。
 他には、蓮実重彦著『伯爵夫人』、藤井雅人著『定家葛』が記憶に残った。


恩田陸蜜蜂と遠雷
●高田大介『図書館の魔女』

 エンターテインメント系(国内篇)ではこの二冊。いずれも絶品。


●ユッシ・エーズラ・オールスン『特捜部Q 知りすぎたマルコ』上下(吉田薫訳)

 エンターテインメント系(海外篇)の最大の収穫が「特捜部Q」シリーズ。
 まず『檻の中の女』『キジ殺し』『Pからのメッセージ』と映画で観て、その後『カルテ番号64』『知りすぎたマルコ』『吊された少女』と読み進めた。来年は第七作が翻訳されるらしい。待ち遠しい。
 マーク・グリーニーの『暗殺者の飛躍』(伏見威蕃訳)も楽しめた。


●松本紘『改革は実行──私の履歴書

 今年の「拾い物」。著者の講演を二度聴いた。その肉声が書物を通して聞こえてくる。
 その他、尾畑雅美著『パーソナル・フレンド──情報に生きる』(非売品)も記憶に残った。

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 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
  

  第44章 貫之現象学の諸相・総序
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  中原紀生


  ■貫之現象学の由来
  これより、貫之歌論(貫之現象学)をめぐる後段の議論に入ります。
  そもそも「貫之現象学」という呼称、そしてこれを通じて私が構想し、その
 実質を究めたいと目論んできた貫之の歌と歌論の世界は、永井均著『西田幾多
 郎──〈絶対無〉とは何か』における「西田現象学」という語に由来し、そし
 てそこでの永井氏の議論にほぼ全面的に準拠していました。ここでその原点を
 確認し、かつ、初心に立つため、永井氏の議論の骨組みをあらためて概観して
 おきたいと思います。


  第一、貫之現象学クオリア篇)。
  西田幾多郎が初期には「純粋経験」と呼び、その後は「場所」と呼んだもの
 (57頁)。そのような、すべてがそこから始まる「無の場所」に向かう西田の
 哲学的探究を、永井均は「西田現象学」と呼ぶ(84頁)。
  西田現象学において「あるものを知ることは、そのあるものになること」
 (21頁)であり、善や美もまた「主客の合一としてのこの統一作用と別のもの
 ではない」(23頁)。
 「雪舟が自然を描いたものでもよし、自然が雪舟を通して自己を描いたもので
 もよい。元来物と我と区別のあるのではない。客観世界は自己の反影といい得
 るように自己は客観世界の反影である。我が見る世界を離れて我はない。」
 (『善の研究』)
  純粋経験=直接経験は、たとえば「言葉に云い現わすことのでない赤の経
 験」のように、「じかに体験され、意識される生々しい感じ(これを、「クオ
 リア」という)をともなう」(40頁)。
  永井氏は、そのような「生[なま]の事実」(41頁)を西欧中世哲学にいう
 「実存(事実存在)、エクシステンティア」に、これと対になる「論理的推
 論」を同じく「本質(本質存在)、エッセンティア」にあてはめている。
  デカルトの「われ思う、ゆえに、われあり」においては、「論理的推論と生
 の事実、つまり本質と実存は連続している」(41頁)。そして、デカルト以後
 の西洋哲学史が「生の事実ではない側を自立させる方向へと展開した」*1]
 のに対して、西田は「初発からこの展開を拒否した」(41-42頁)。


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 ●連載〈心霊現象の解釈学〉第11回●


  魔女ランダの亡霊──中村雄二郎における逆光の形而上学 
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/sinrei-11.html
 

  広坂朋信


  前回、個人の意識を基準に怪異を叙述する際の難点を指摘したが、それでは
 視点を変えて、心霊現象を巨視的にとらえる場合にはどういう問題が考えられ
 るのか。このテーマについては、かつてこの連載「心霊現象の解釈学」でも、
 円了妖怪学と柳田民俗学を題材にした第7回「妖怪学の衝突」、香川雅信『江
 戸の妖怪革命』を題材にした第8回「「不気味なもの」の向こう側へ」でも取
 り上げたことなので芸がないと言われればそれまでだが、別の題材によって再
 度考えてみることで新たな発見があるかもしれないという淡い期待を抱いてい
 る。
  今年の夏(2017年8月)に亡くなった哲学者・中村雄二郎氏は、人類学者・
 民俗学者小松和彦氏との共著『死 21世紀へのキーワード』(岩波書店
 1999)で亡霊や怨霊に言及している。私は膨大な中村氏の著作をつぶさに読ん
 だわけではないが、おそらく『死』は、中村氏がリアルな亡霊に言及してい
 る、かなり希少な一冊である。ここでリアルな亡霊というのは、演劇や文学作
 品に登場する役柄としての亡霊ではなく、経験談として語られた亡霊という意
 味である。それは、共著者の小松和彦氏が『憑霊信仰論』、『悪霊論』などの
 著者だからというサービス精神によるものもあったかもしれないが余計な憶測
 はやめておこう。
  同書(p96)で中村氏は「私は亡霊というのを人間の心に並々ならぬ力で作
 用するヴァーチャル・リアリティーの一種だと考えている」と書いていた。亡
 霊とはヴァーチャル・リアリティーの一種だと中村氏は考えていたのである。
 これは、私の「心霊学」にとっても考えさせられる論点を含むと思われるの
 で、あらためて読み直しておきたい。なお、同書は共著者小松和彦氏との往復
 書簡という体裁で編まれているため、必要最低限の範囲で小松氏の発言にもふ
 れる。


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 ●連載「新・玩物草紙」●


  杉山平一の推理小説/書物検索サイト
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  寺田 操


  《十七億の人間の指紋が、いちいち違う、といつて、人は驚いているが、も
 し同じものがあつたなら、それこそ驚かねばならないのである。この世に、雲
 のたたずまい、汚点のかたち、道を行く一匹の犬、何ひとつ同じものはない。
 きよう、空に見る雲のかたちを同じものは、もう何千年たつても見ることはで
 きない。》
  書き出しから引き込まれたのは、まげものスリラー『三つの駕籠』(新関西
 新聞/1955・9・11)である。非番の侍が用人部屋で格子越しに月明りを楽し
 んでいた。そこへ「ほい」「ほい」「ほい」とかけ声とともに土塀に添って現
 われた一挺の駕籠。それから小半時も経たずに、「ほい」「ほい」「ほい」と
 また一挺の駕籠。寸分たがわぬ情景に、また「ほい」「ほい」「ほい」のかけ
 声とともに現れた一挺の駕籠。いずれも前の駕籠かきの腰がへっぴり腰だか
 ら、三挺は同じ駕籠かきだ。何かある、追いかけていけば、ある邸のあたり
 で、ふっと消えた。
  作者は映画評論、詩、童話とジャンルを横断する表現活動で知られていた杉
 山平一氏(1914〜2012)だ。杉山氏が推理小説を数多く発表されていたのを
 知ったのは、「杉山平一、花森安治展」――詩人探偵と暮らしの手帖探偵
 ――」(帝塚山学院同窓会顕彰ホール/20173・3・22〜31)にでかけたことに
 よる。杉山氏蔵書の探偵・推理小説の展示を観覧しながら、意外という気がし
 なかった。杉山氏の詩には、短詩にも散文詩にも、ミステリー的な要素や謎と
 きめいた作品が少なくなかったからだ。


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Web評論誌『コーラ』32号のご案内

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 ●連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●

  
  第42章 和歌三態の説、雑録──心・イマージュ・映画
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  第43章 中間総括──古今集仮名序をめぐって 
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  中原紀生


  ■心の四分岐をめぐって
  雑録の一。第40章で、心と世界の四層構造に思いをめぐらせていた際、脈絡
 なく同時並行的に読み進めていた三冊の書物の、それぞれから切り取った断片
 が一つにつながっていった。そのことをここでとりあげる。

  (その1)
  津田一郎著『心はすべて数学である』は、刺激的な話題に充ちた書物だっ
 た。
 (たとえばエピローグにでてくるチューリング夏目漱石をめぐる議論は秀
 逸。チューリング・テストは本来「機械か人か」を当てるゲームではなく「男
 か女か」をテストするものだった。マンチェスター工科大学近くの銅像には
 「偉大なるロジシャンにしてホモセクシャルで論理学者のチューリングに捧げ
 る」と刻まれている。自分は男なのか女なのか、いったい男と女は何が本質的
 に違うのかという実存的な悩みに直面したチューリングが自分のような人間の
 表現形として、生物としてのセックスのない中性的な機械を考えた。これと同
 じように、ただしチューリングとは逆に、漱石は西洋と東洋の差異という実存
 に迫る深い苦悩をモチベーションにして男女の性(恋愛)をめぐる小説を書い
 た。漱石が描く女性は西洋近代を象徴していて、東洋的で優柔不断な男性たち
 を独特のロジックでやり込め、たじたじにさせたのである。)


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 ●連載〈心霊現象の解釈学〉第10回●


  父の怪談  
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/sinrei-10.html

  広坂朋信

  仕事帰りにスーパーで買い物をしていた私の携帯に老母から電話。何事だろ
 うと思って出ると、「お父さんが帰って来て、自分の寝るところを探している
 から、お前にすぐに伝えようと思って」という。
  老父は昨年冬に認知症で入院してから、入院中に肺炎を起こして何度も危篤
  におちいり、今も病院のベッドで寝たきりである。
 「それは夢を見たんじゃないの。お父さんのことを心配しているからだね」と
 言い聞かせるが、実はこの日の朝、母から「玄関でお父さんの声がする」と電
 話があったものだから、ついに老母もか、と不安を覚えていた。
  しかし、考えてみると、こうした話は今にはじまったことではない。もう一
 年ほど前になるだろうか。父の認知症が疑われはじめたころ、実家に立ち寄る
 と、父が「ふすまの向こうに婆さん(父の母・故人)がいる。白い手を出して
 おいでおいでをする」という。そういう話をしていたら母が、「夢を見ていた
 のか、寝ていると誰かが私の布団のまわりをぐるぐる歩いている。誰だろうと
 思ってみると、父(母の父・故人)が歩いている。お父さんが何人も何人も
 ……」というのであっけにとられた。
  私の両親には以前からこういう話題を口にする傾向があった。とくに母に
 は、夢を一種のお告げのようにとらえる傾向がもともとあって、これまであま
 り気にも留めていなかったが、後期高齢者になってからますますそういう話が
 増えたような気がする。
  両親ともに、もう六十年近く東京で暮らしているわけだが、昔気質な人たち
 で、世間話にもどこか民話のような響きがあって、閑なときに聞くぶんにはよ
 いものである。
  閑話休題。夏の暑さに寝苦しい夜が続く。私の家族の与太話よりも、まずは
 怪談の名手による作品をお読みいただこう。


 (Webに続く)http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/sinrei-10.html


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 ●連載「新・玩物草紙」●


  吉増剛造はムツカシイ?!?/エンド・ゲーム
  http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-36.html


  寺田 操


  吉増剛造はムツカシイ……と敬遠されていると小耳にはさんで、何かゴツン
 と頭を叩かれた気がした。若い日には、これは何だと驚愕した詩と詩人たちと
 の出会にこそ興奮したものだが。
  吉増剛造『黄金詩篇』(思潮社/1970・6・1)赤瀬川原平の装幀に度肝を抜
 かれた。水紋のなかから黄色い指がヌット突き出し、その指の爪の先にも水紋
 があり、なでしこのような花首がいくつも散っていた美しくて不気味な絵だ。
 扉を開けば吉増剛造の青いペン書きの詩篇。完成された作品ではなく、書き込
 みや削除などの痕跡が生々しいが、これもお気に入りだった。


 (Webに続く)
 http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/singanbutusousi-36.html