哲学という最も畳長な営み――『〈畳長さ〉が大切です』

 山内志朗著『〈畳長さ〉が大切です』(双書哲学塾,岩波書店:2007)を読んだ。


 阪神・淡路大震災の後、リダンダンシー(redundancy)という言葉をよく耳にした。基幹道路一本で地域が結びつく都市構造は脆弱で、大規模災害に弱い。平時には無駄とも思われる複数の交通アクセスを確保しておくことが、いざという時のバックアップ機能につながる。確かそういう趣旨のことだった。
 都市計画や建築物の構造といった分野だけではなく、暗号や情報理論やコンピュータ科学でもリダンダンシーは重要な概念である。たとえばいまたまたま読んでいる『宇宙を復号する――量子情報理論が解読する、宇宙という驚くべき暗号』(チャールズ・サイフェ著)という本もリダンダンシーをめぐる話題から始まっている。
 一般に冗長性と訳されるこのリダンダンシーのことを、著者は畳長性と呼ぶ。冗長性すわなち余贅、蛇足、冗漫といった否定的なニュアンスを打ち消すためである。冗長どころか、畳長性は人間の生き方をめぐる、いや生命そのものの、はては世界における存在の基本原理ともいえる大切なものだからである。
 そういう意味では、畳長性はリダンダンシーの新訳語というより、著者が始めて世に提示する独自の新しい概念であるという方が正しい。それもすでに出来上がったものではなくて、これから磨き上げられていくべき概念である。
 だからなのだろう、この本はとてつもなく難解である。冗漫というと著者に怒られるが、畳長性をその形において示そうとしたらしいライブな語り口で叙述された七日間の講義と長い補講からなる本書は、その細部の議論はとても面白いのだが、情報理論にコミュニケーション論にサイバネティクス柳家小三治ベイトソンにパース、等々と矢継ぎ早に繰り出される話題がうまく一つにまとまらない。
 安全性の確保や誤謬の自己訂正といった機能をもつ畳長性。コミュニケーションの可能性の条件としての畳長性。存在論や生命論にかかわる多様性の条件としての畳長性。それらの規定がバラバラなままでつながっていかないのである。
 圧巻は「畳長性とは何か――存在論からコミュニケーション論へ――」と題された補講だ。読者に判ろうが判るまいがもうどうでもいい。そういう些事にはかかわらず、著者はただ夢中になって創発途上の概念の輪郭と深層と有用性を描いていく。
 アッシジのフランチェスコの歌を踏まえていわく、畳長性とは受肉の別名である。キケロの修辞学を踏まえていわく、文章における畳長性を扱うのが修辞(詞姿=フィギュール)であり、会話における畳長性を扱うのが表出である。等々。
 いわく、畳長性は偶有性である。またいわく、西欧中世の普遍論争における実在論は、普遍の実在性というよりも、多様性(畳長性)の賛美に一つの中心を持っていた。(この普遍論争と畳長性との結びつきについて、著者は『存在の眩暈』という書物を予定しているらしい。刊行が待たれる。)またまたいわく、人間の五感にも畳長性は見られるのであって、たとえばリンゴの「おいしさ」は畳長性なのだ。等々。
 そうした多様な(畳長な)議論を通じて「畳長性とは、創造性と多様性が潜在的なものとして宿り、集積している場所なのです」という定義が示され、はては、畳長性とは現実を別の次元から見直す「藝」であって、その意味では哲学とは最も畳長な営みである、と見得を切る。
 この本が難解でつかみどころがないのは、出来合いの概念に寄りかかった解説本ではないからだ。まだ誰も考えたことのない未知の概念をつくりだそうともがいている哲学の現場がさらけ出されているからだ。だから読者も何かを勉強しようなどとは思わず、惜しげなく投げ出された概念の積み木を使って自分の哲学を組み立てればいいのである。