哲学の四つの門──『哲学の誤読』

 入不二基義著『哲学の誤読──入試現代文で哲学する!』(ちくま新書)。著者自身があとがきで言うように、これはかなりユニークな本だ。
 大学入試の国語の問題に使われた四人の哲学者(野矢茂樹永井均中島義道大森荘蔵)の文章を徹底的に読み解き、かつ設問に答えることでもって哲学すること。
 その際、哲学の文章がいかにして誤読されるか(誤読されざるを得ないか、またそれはどのような種類の誤読なのか)を実例に即して検討し、哲学的な思考とは何かについてその輪郭を浮かび上がらせること。
 これだけでも十分ユニークだと思うが、それはまだ事柄の半面でしかない。
 この本の本当の面白さは、そうした趣向で読者の気を引きながら、いつのまにか日常的思考から哲学的思考へと、それも哲学一般の思考(そんなものがあるのかどうか判らないが)ではなくて、入不二哲学とでもいうべき固有の哲学的思考の奥深くまで引き込んでしまう叙述の構成(というか企み)にある。
 その意味では、入試現代文を素材にしながら、誤読によって哲学の輪郭を逆照射するという趣向が、ねらい通りの効果を発揮しているのは前半の二章、とりわけ永井均の文章を扱った第二章までで、そこで取り上げられる誤読は、哲学的問題や哲学的議論に対する誤解(哲学的問題に答えを求めること、哲学的思考を知識や人生論の問題として読むこと、等々)である。
 これに対して、後半の二章で取り上げられる誤読は意図的誤読(理のある誤読)もしくは創造的誤読であって、むしろそれこそが哲学的思考の一つのかたちである。そこでは、入試問題の解説・解答などもはや余分なことに思える。


     ※
 著者はまえがきで、本書は現代文の受験参考書と哲学の入門書を橋渡しするものだと書いている。その橋を渡ること自体がすでにして哲学の門をくぐることであるような一冊であると。
 この「哲学の門」という語彙に着目すると、本書の四つの章に描かれた哲学(入不二哲学)の構図のようなものが見えてくる。
 まず、哲学的思考がそこから立ち上がる「基底的情報源」(大森荘蔵の文章に出てくる言葉)としての端的な生の経験がある。平たく言えば、知覚や想起や対人交渉といった日常の経験のことである。見えている物は実在しているか。過去はいま記憶しているとおりのものか。他人の心は本当にわかるか。そういった問いがそこから浮上する。
 これらの問いに答えられないと、日常生活は破綻する。猛スピードで迫ってくる車の実在を疑う前に、身をかわさなければ命を落とす。過去は写真や証言や契約書によって裏書きされる。他人の痛みがわからない冷血漢は生きていく資格がない。
 ところが哲学では、問いは解けない。解けないどころか、考えれば考えるほど謎は深まっていく。そのような問いを立ち上げることが、哲学的思考の出発点となる。これが第一の門。
 この解けない問いをめぐって、哲学的探求は果てしなく続く。そこで思考されているのは、たとえば生き方の問題ではなくて、むしろ「生の形式」の問題である。いかに生きるかではなく、いかに生きているか(生きていかざるを得ないか)である。
 それは、知覚や想起の脳内因果法則を明らかにする科学的探求とも違う。たとえ将来、科学者が解答を与えたとしても、それでもなお解けない問いを哲学者は問い続ける。問いを問うことの意味を含めて、問いの答えようのなさ(形式)そのものを不断に語りつづけていく。
 そうした探求の彼方にある「不可能性」や「無」へ(本書での例を挙げれば、「解釈学的な過去」に対する「考古学的な過去」、あるいは「過去の順序関係や現在の心の状態に還元される未来」に対する「時間そのものが存在していない無としての未来」へ)、つまり言葉や思考の「外」へ向かって、明晰な言葉でもって思考し続けること。
 この無限の運動の終局するところに、第二の門が控えている。それをくぐることは、言葉の彼方へ(狂気もしくは悟りとともに)飛んでいってしまうことだろう。
 しかし、哲学的思考は無限の運動なのだから、それが終局することは原理的にあり得ない。だから、その本来あり得ない哲学の第二の門をくぐることは、哲学への入門に対して日常生活への出門と言うべきだろう。
 ただし、それは中断された(もしくは挫折した)哲学的思考の所産である「形而上学的妄想」に汚染されて(もしくは「哲学病」に侵されて)日常生活に帰還することでしかない。たとえば、知覚の及ばない物自体という妄想、想起できない過去自体という妄想、実は現在の心理状態でしかない未来という妄想、等々。
 この紛い物の第二の門が哲学の第三の門で、実は、それこそが(哲学的な問いがそこから立ち上がる)日常の経験そのものを可能にしている。この門をくぐることで、(形而上学的妄想とは無縁の)端的な生の経験が(形而上学的妄想に汚染された)日常の経験として成り立つのだと言ってもいい。
 哲学的思考の中断(挫折)によって創られたものが、実はあらかじめ(哲学的思考に先立って)在ったものであるという転倒。日常生活の経験が既にして形而上学的妄想に汚染されていて、そこでの思考が既にして擬似哲学的な(哲学病に侵された)思考であったという転倒。それは言葉というもののうちに、したがって言葉を使ってなされる思考のうちに始めから仕込まれていた転倒である。
 こうして、言語批判・哲学批判もしくは反哲学としての(もう一つの)哲学的思考が立ち上がる。そして、この(もう一つの)哲学的探求の果てに控えているのが第四の門である。それをくぐることは、(形而上学的妄想に汚染された)人生を降りること(生き方を変更すること)であり、(形而上学的妄想に汚染されていない)端的な生の経験へと帰還することである。
 だが、ここで問いが浮上する。いま述べた「端的な生の経験」は、それもまた(もう一つの)形而上学的妄想なのではないか。こうして、哲学的思考は尋常ならざる深みへとはまっていく。