初めての電子ブック体験

 小浜逸郎著『日本の七大思想家──丸山眞男/吉本隆明/時枝誠記/大森荘蔵/小林秀雄/和辻哲郎/福澤諭吉』を読んだ。
 初めての電子ブック体験だった。
 全体の分量が感覚的につかめないのが苦痛だし、後で文章を確認するのに苦労する。議論ではなく物語に溺れるのに向いているのでないかと思う。


 この著者は信頼できると思っていたが、時折、通りすがりの批判のような浅薄なものが見受けられるのが気になった。
 特に大森荘蔵に対するものはひどい。「哲学」と「思想」を混同している。
 読むのをやめようかと思いはじめると、見過ごせない鋭い指摘が繰り出されたりするものだから、中断できないまま最後まで読んだ。


 とりあげた七人の関係、その配列の仕方などは考え抜かれているのではないか。時枝誠記から大森荘蔵、そして小林秀雄へといたるところはとくに面白い。
 記憶に残ったのは39%あたり(ページ数で示すことが出来ない)。
 時枝の初期の論文(「語の意味の体系的組織は可能であるか」、『言語本質論』)に、形容詞は物(客体)の状態と心(主体)の情状を両方表わすことができるものがあると述べられているのを読み、著者がかつて『エロス身体論』で知覚と情緒の関係について考えたことと「シンクロ」するものであったと書いてあるところ。


《私が言いたいのは、形容詞という品詞または形容詞的表現は、もともとどちらかに分類可能なものではなく、「客体」とその知覚に不可分につきまとう「主体の情」とを二つながらに表現するに適した言い回しなのであって、そこにまさに「物心一如」の世界が出現していることを語ろうとした言葉(群)なのだということである。
 吉本隆明流に言えば、それこそは理性によるコントロールを通過する以前の「自己表出」であって、「はじめに言葉[ロゴス]ありき」(ヨハネ伝第一章)ではなく、「はじめに言葉[パトス]ありき」なのである。》


 著者さらに、「真っ赤に燃え上がった怒り」や「哀しい光景」は言葉の比喩や転用ではなく、むしろ主体の思いと客体の状態とをはじめから一体的なものとして表現する形容詞本来の機能に根ざした表現であり、原始的な身体感覚にぴったり合うように訴えかけてくるのだと論じる。
 そして、時枝の、言語の本性をなすものは述語格であるという説は、この形容詞に見られる「物心一如」的な世界把握とまさに同じことを表現しているのだと評価し、この考えは大森荘蔵の「立ち現われ一元論」へと連続していくと論じる。
 このあたりのところは、かねて私が構想している四つの私的言語論につながっていく。すなわち「今」的言語、「此処」的言語、「私」的言語(狭義の私的言語)、「感情=パトス」的言語(「共感覚・身体」的言語)。