◆Web評論誌『コーラ』46号のご案内
◆Web評論誌『コーラ』46号のご案内(転載歓迎)
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- PDF版『La Vue』No.6(2001/06/01)<ペーパー版からの復刻です>
鳳凰堂のペルシャ美と京都復興──「京都デザインリーグ」の試み
渡辺豊和
わたしは『「懸命に」ゲイに「ならなければならない」』 大北全俊
「態度の変更」として──柄谷行人著『倫理21』を読む 村田 豪
「これが好きだ」ということが大好きだ 小杉なんぎ
わたしたちは忘却を達成した──大東亜戦争と許容された戦後
野原 燐
(Webに続く)
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- 書評●
鉄道好きへの問いかけ
弘田陽介著『子どもはなぜ鉄道が好きなのか』を読んで
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小原まさる
この本は、子どもはなぜ電車が好きなのかを問う本である。著者は、自分の
子どもが「でんしゃ」と声を上げるのを見て、「なぜ子どもは電車がこんなに
好きなのだろう」と思ったという。教育哲学の研究者である著者は、その哲学
的な知見を生かして、著者自身が抱いたこの疑問への答えを探ろうとする。こ
のような試みは、著者が言うように、これまであまりなされてこなかったこと
であろう。
この本がどのような読者を対象としているかは明確ではないが、鉄道好きの
子どもを持った親の視点からこの課題に取り組んだ本であり、そしてそのアプ
ローチの仕方が教育哲学の立場からのものであることが、この本を独特なもの
にしていると思う。鉄道を愛好している人は、なぜ自分が鉄道好きになったの
かという点に関心があるだろうし、自分の子どもは鉄道好きのようだと感じて
いる人も多いだろう。おそらく、この本を手に取るのは、こうした大人たちと
いうことになるだろう。この本では、西欧の哲学者の本も引用されているの
で、それが読者に難解な印象を与えるかも知れない。しかし、自分の子どもの
目を通して鉄道を見ようとする著者の姿勢が、やや難解な部分がありながら
も、この本を読みやすいものにしていると思う。
私自身も大の鉄道好きであるが、鉄道好きへの哲学的(精神分析学も含まれ
る)アプローチがどう展開されているのかに興味を持ったので、この本を読ん
でみることにした。(Webに続く)
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- 連載:哥とクオリア/ペルソナと哥●
第66章 純粋言語/声と文字/アナグラム(その1)
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中原紀生
本論に入る前に、これまでの議論を「復習」しておきます。
◎永井(均)哲学の概念を使って、「純粋経験」を「固有名で置きかえること
ができる単独性の《E》ではない、独在的な存在〈E〉をめぐる直接経験」
(E=感情・現実・今・私)ととらえ、そのような語り得ない純粋経験を語る
(示す)言語として「私的言語」を定義した。(第62章参照)
◎永井-入不二(基義)哲学、そしてミシェル・アンリの議論を援用して、
「私的言語」を、無内包の現実性(純粋なアクチュアリティ)を語る(示す)
「詩的言語」と、存在するものの事象内容=実在性(リアリティ)を語る(そ
れのみを語る)「公的言語」との中間にあって、それらをつなぐ媒介として、
公的言語では語れない無内包の現実性の「お零れ」(痕跡)を語る(示す)も
のとして位置づけた。(第63章参照)
◎ベンヤミン、ド・マンに準拠して、「私的言語」(の少なくともその半面)
を「アレゴリー」に見立て、そこに「夢のパースペクティヴ」の静態論と動態
論を導入し、四つの私的言語の(発展)過程をめぐる次のような「地勢図」
[*]を作図した。(第64・65章参照)
【第一段階・第〇フェイズ─世界(時空)の創出】
・〈感情〉をめぐる私的言語:<アレゴリー〇>
【第二段階・第1フェイズ─空間と時間の析出】
・〈現実〉をめぐる私的言語:<アレゴリーⅡ>
・〈 今 〉をめぐる私的言語:<アレゴリーⅢ>
【第二段階・第2フェイズ─名の制定】
・〈 私 〉をめぐる私的言語:<アレゴリーⅠ>
(Webに続く)
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- 連載「新・玩物草紙」●
不気味な童謡/窓
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寺田 操
澁澤龍彦『東西不思議物語』河出文庫/1982)では「不気味な童謡のこ
と」について触れられていた。うかつにも数年前に赤い鳥100年の特集に童
謡のことを書きながら、この文章を失念していて後悔した。ここでは民衆のあ
いだで爆発的に流行する童謡(わざうた)は、ほうき星、日蝕、月蝕などの天
体現象が、社会的なあるいは政治的な事件を暗示し、不吉な前兆のように解釈
されるのと同じような感覚として、不気味な前兆のように思われていたらしい
という。仮想空間が日常に入り込み境界線を溶解させてしまった現代社会で
も、意外と呪術的な怖れは希薄になっていないはずだ。あらゆるモノ(コロナ
ウイルスも含めて)が擬人化され、不気味な童謡を無音で歌いながら忍び寄っ
てくる気配に怯える。 (Webに続く)
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- 連載「黒猫のノオト」2●
中江兆民『三酔人経綸問答』を読む
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/kuroneko-note-2.html
黒猫房主
「どこにもない場所=無可有の里」「酔人の語らい」「荘子的世界」という
設定、<現実>との距離を置くことで、逆説的に<情況>を照らし出すという
手法によって本書は政治哲学を展開するSF( speculative fiction)とも言
えると思うのだが、そのことによって本書の射程は現在まで届いているようだ。
それは本書の書かれた当時の情況や兆民の意図も超えて、さまざまな読まれ
方の可能性を生み出す。それはまた読み手の立ち位置や読解の深度を映し出す
効果もあるように思える。
高澤秀次は、酔人による夜を徹しての天下国家を論じるという作品の構成に
は構成以上の隠された意図がある。それは当時の民権と国権のイデオロギーを
同時にパロディ化してみせること、つまり問答形式の採用は政治的二項対立の
無効を告知するための仕掛けではなかったのかという見方をする(が、その視
点はすでに竹内好が「日本のアジア主義」において示唆していた)。
そして折衷的で曖昧な「南海先生」の態度こそが、西欧の論理に同調でも反
発でもない第三の道を、意見ではなく「態度」として示している。それはナ
ショナリズムとインターナショナリズムを包摂した、第三の道の可能性=「風
の抵抗」であった(剣に対する風=「我れ其れ風と為らん哉」を唱える西洋紳
士君、p14・原文p122)。ここに兆民の可能性の中心が凝縮されている。そし
てこの思想の流儀を継承したのが、竹内好であったとつないでいる(「その後
の「三酔人」――中江兆民から竹内好へ」、井田進也編『兆民をひらく――明
治近代の<夢>を求めて』所収)。(Webに続く)
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/kuroneko-note-2.html