Web評論誌『コーラ』48号のご案内

◆Web評論誌『コーラ』48号のご案内(転載歓迎)

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  • PDF版『La Vue』No.8(2001/12/01)<ペーパー版からの復刻です>

 これからおもしろくなる               立岩真也

 「将来の公正らしさを保つ」という「超」能力の要求  神坂直樹

 竹田エロス論と〈他者=外部〉            神名龍子

 六条御息所の魂               ゆふまどひ あかね

 正義って何なんだ~!                ひるます

 私たちは戦争に反対する             共同アピール

 魂の経済学序説                   中塚則男

 (Webに続く)http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/LA08.pdf

 

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  第69章 人間の言語の三帯域論(マテリアル篇)  

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  第70章 人間の言語の三帯域論(マテリアル篇・承前)   

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  中原紀生

  人間の(諸)言語の三つの稼働帯域について、以下、前章の《図》を念頭に

 おきながら、マテリアル篇、メタフィジカル篇、メカニカル篇の順に考察して

 いきたいと思います。が、その前に、この図の地勢学的解釈、すなわち「マテ

 リアルな帯域/メカニカルな帯域/メタフィジカルな帯域」∽「海/波/風」

 の対応関係に関連して、ソシュールドゥルーズの思考を、いずれも孫引きの

 かたちで拾っておきます。

 

  その一、石田英敬著『記号論講義──日常生活批判のためのレッスン』

  [*1]。

  いわく、ソシュールは、「シニフィアン」(意味スルモノ=記号表現、音

 声・音調・音響イメージ)と「シニフィエ」(意味サレルモノ=記号内容、観

 念・概念)との、表裏一体で互いに切り離し得ない対応関係を「水」と「大

 気」の関係に喩えた。

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  • 連載「新・玩物草紙」●

  マスクの存在/夏樹静子のミステリー 

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  寺田 操

  春には花粉症がでるのでサングラスとマスクと帽子は必需品。外出時には予

 備のマスクを持ち歩く。マスクにはほぼ抵抗は少なかったのだが……。どこを

 見てもマスク・マスク・マスクが街を闊歩しているとなれば、鼻が顔から抜け

 出して街を歩きはじめるというゴーゴリ―的な世界ではないか。マスクの女と

 か、マスクの男とかではなく、「マスク」という「存在」が街を歩くのだ。な

 にしろ世界中を「マスク」が席巻してしまったのだから。なかでも民族色豊か

 なマスクの登場には驚かされたし、その地には新たな雇用も生み出された。

 (Webに続く) 

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  • 連載「黒猫のノオト」4●

  『墨子』を読む

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  黒猫房主

 「兼愛篇」「非攻篇」を中心に、孔子の「仁」に対する墨子の「義」との相違

 や兼愛とキリスト教の相違を通してみると、墨子墨家思想の中核は「天意」

 の実現、あるいは「天下の理を興し、天下の害を除く」(「兼愛」中篇)とい

 う統治論/術(論は事例的・反復的でかんで含めるように文意は明解、孔子

 ようなレトリカルな韜晦さがない)に収斂するように思われます。この統治術

 は、フーコー的な意味での「生-政治」を含意しているのかもしれません。

  「兼(愛)に当りて行わざるべからず。此れ聖王の道にして、万民の大利

  ればなり。」(「兼愛」下篇)。

 「天意」や「聖王」を如何に(何に置き換えて)理解するかによっては、「尚

 賢・尚同」の捉え方が独裁思想から解放思想まで読み幅は大きく振れますが、

 それは読む側の立ち位置が問われているのかもしれません。

 (Webに続く)

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