休日の読書

九時過ぎに起きて「サンデーモーニング」の岸井成格さんのコメントを聴きながら朝食をとり、「サンデープロジェクト」のホリエモン特集を眺めながら朝刊を読む。
落ち着いて新聞が読めるのは日曜の朝だけ。
朝日の読書欄の第一頁のデザインが変わった。
柄谷行人が『複雑な世界、単純な法則』のレビューを書いている。
この人がこんな素直な文章(「本書を読んで久々にわくわくさせられた」など)を書くのかとちょっと驚く。
あいかわらず面白い本の紹介がない。
DVDを返しに出かける。ついでに駅前のドドールで本を読む。
『批評理論入門』の「まえがき」に「『フランケンシュタイン』やエミリ・ブロンテの『嵐が丘』は、繰り返し映画化されつつも、もっとも翻案化が困難な類の小説である」と書かれている。
昔読んでとても面白かった川口喬一『小説の解釈戦略──『嵐が丘』を読む』のことを思い出した。
実はこの本は一頃姫路の「書庫」からもちだして、新潮文庫の『嵐が丘』とセットで再読しかけたことがあった。
続いて茂木健一郎『脳と創造性──「この私」というクオリアへ』の前半を読む。
この本のキモは「はじめに」に出てくる二つのこと(「コンピュータに代わる、脳を理解するためのメタファーを見いだすこと」「自らの置かれた生の文脈を引き受け、脳の中に潜んでいる創造性という自然な力を発揮することこそが、生きる歓びなのである」)が終章で論じられる「個別と普遍」のテーマに収斂していく理路にある。
ここをおさえておけばこの本は理解できる。
けっして難しい本ではないが、茂木さんの議論はときどきダブルミーニングではないかと思うことがある。
最後に木田元ハイデガー拾い読み』の前半を再読する。この部分は先々月に読み終えた。
「〈実在性〉と〈現実性〉はどこがどう違うのか」とか「「世界内存在」という概念の由来」とか、木田さんの本でこれまでからもう何度も繰り返し取り上げられてきた話題が延々と続く。
読むたびに新しい刺激を受ける。
物覚えが悪くなったのを嘆くより、何度でも愉しめることを歓ぶべきで、これも「生きる歓び」の一つだろう。
はやく後半に進みたいと思うが、この本は読み急いではいけない。
木田さんの名人の域に達した語り口にゆったりと身を寄せ味わいながら読まなければいけない。


帰りに近所の図書館に立ち寄って、丸谷才一『挨拶はたいへんだ』と『村上春樹河合隼雄に会いにいく』を借りる。
『挨拶はたいへんだ』は河合隼雄さんの『大人の友情』に話題が出てきたのでにわかに読みたくなった。
冒頭に収められた「この抒情的な建築」は村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の谷崎賞贈呈式での選考委員祝辞。
たかだか三頁ほどの短い文章のうちにこめられた藝の凄さに舌を巻く。
村上春樹河合隼雄に会いにいく』は明日河合隼雄さんにお会いするので、村上龍の対談集『存在の耐えがたきサルサ』に収められた「心の闇と戦争の夢」とあわせて読み直しておこうと思った。
帰宅して遅い昼食をとりながら昨日に続いて『理系生活のススメ』を少し読む。
養老孟司玄侑宗久の『脳と魂』が途中で中断したままなのでこの際読み切ってしまおうと思っていたが、食べ過ぎて眠くなり、坂本龍一の『/04』を聴きながらしばし午睡──のつもりが『半島を出よ』を手にしたらやめられなくなって上巻の半分(フェーズ1まで)を読む。
朝日の夕刊(3月29日)で村上龍が「句読点やカギカッコ、漢字とカタカナ、ひらがなの違いまで利用して、描写力を限界まで使った」と語っている。
「持っている知識と情報と技術をフル動員して書いた」とも。
描写力や技術という言葉の実質はたぶん実作者でないとわからないのだと思う。
上巻の登場人物が百四十五人(一度数えただけなので違っているかもしれない)。この物量だけでも凄い。
夜、明日の仕事の段取りをイメージしてからTVを横目にだらしなく雑誌などを眺めた後、『存在の耐えがたきサルサ』に収められた十五の対談のハイライト(頁を折ったり鉛筆で線を入れた箇所を中心に)を反芻して過ごした。
河合さんとの対談では「個人的な祝祭」という語彙が記憶に残った。