2006-05-01から1ヶ月間の記事一覧

『ウィトゲンシュタイン──「私」は消去できるか』

序章に『維摩経』第八章、入不二法門品の話題が出てくる。 「さとりの境地(不二の法門)に入るとはいかなることか」。 維摩が発したこの問いをめぐって、三十一人の修行者(菩薩)と文殊師利(マンジュシリー)がそれぞれの自説を展開していく。 いわく、生…

『はじめの哲学』

金森修さんが『ベルクソン』のあとがきに、「僕にとって、哲学書を読むというのは、ある種の生まれ変わり、ある種の若返りを体験することなのだろう」と書いている。 生まれ変わりを体験するとは、いったいどういう体験をすることなのだろう。想像を絶する。…

『ベルクソン──人は過去の奴隷なのだろうか』

金森修さんの『ベルクソン──人は過去の奴隷なのだろうか』はずいぶん前に読んだ。 端正な文章で叙述されたベルクソンの「常識離れ」した思考の急所、とくに「重々しい晦渋さ」(76頁)に覆われた『物質と記憶』での「途方もない」(88頁)議論のいくつかを、…

『記憶と生』(第2回)

今日は手元に『記憶と生』がないので、先週読んだ「持続の本性」の周辺の話題を、別のテキストから拾っておく。 別のテキストというのは、金森修さんの『ベルクソン』。 ここで拾っておきたいのは、「純粋持続を探せ」の章名をもつ第一章の後半に出てくる「…

「写真は、映画によってみずからの静止性を発明した」

このところ毎晩のようにヒッチコックの映画を観ている。 なるべく安いDVDの新品を探して、全部で53ある長篇作品をひととおり揃えようと、これまで少しずつ買いためてきたものを順不同で観ている。 いま現在、25のタイトルが手元にある。 一番安く買っ…

思考を対象化すること

レヴィ=ストロース『神話論理Ⅰ 生のものと火を通したもの』の「序曲Ⅰ」を読んだ。 序章でも序文でも(序でに書かれた)たんなる序でもない。 いかにも序曲と名づけるのがふさわしい、湿気をたっぷりとふくんだ濃密な霧がたちこめた文体。 モーツアルトとい…

宗教・経済・科学・芸術(続々)

『日本中世に何が起きたか』に、網野善彦・廣末保の対談「市の思想」が収録されている。 そこで、廣末氏が「市というものは宗教的問題もあるし、交易の問題もあるし、芸能の問題もある」と語っている。 近世になると、歴史のことはよくわかりませんけれども…

宗教・経済・科学・芸術(続)

同時進行的に複数の本を併読していると、いろいろと面白い発見や過去の読書体験の蘇りなどがあって飽きない。 昨日書いたことと関連して、気になっていることがあるので書いておく。 最近、柄谷行人『世界共和国へ──資本=ネーション=国家を超えて』(岩波…

宗教・経済・科学・芸術

中沢新一さんの『芸術人類学』を断続的に読んでいる。 3月に出た本だから、もうかれこれ二月あまり、ためつすがめつ眺めている。 同じみすず書房から翌月刊行された『レヴィ=ストロース『神話論理』の森へ』に、『芸術人類学』にも納められた「『神話論理…

『記憶と生』(第1回)

以前、「日常座臥、ベルクソンの文章に浸っていたいと思うようになった」と書いた。 「まるで、恋をしているような気分」とも。 「ベルクソンの文章に接しているときだけ、心と躰のもやもやが晴れて、澄み切った気持ちになれる」とも。 あれからほぼ二ヶ月。…

紙一重

文庫本で吉本隆明の著書を二冊、同時に読み進めている。 『カール・マルクス』(光文社文庫)と『最後の親鸞』(ちくま学芸文庫)。 なんど読み返しても、咀嚼しきれない濃厚な残余が後を引く。 思想家としての吉本隆明の凄さがようやく判りかけてきた。そん…