『記憶と生』(第2回)

今日は手元に『記憶と生』がないので、先週読んだ「持続の本性」の周辺の話題を、別のテキストから拾っておく。
別のテキストというのは、金森修さんの『ベルクソン』。
ここで拾っておきたいのは、「純粋持続を探せ」の章名をもつ第一章の後半に出てくる「物[もの]的な持続」(46頁)をめぐる議論。


「多少とも持続的なもの、つまり、そのものそれ自体がもつなんらかの性質によって、それが継続的に存在しているようなもの」(42頁)は、人間の意識だけではない。
たしかに通常の物質は記憶を知らない。本当の意味での時間性を知らない。
物質が変化を遂げても、物質自身は変化を変化と見届けられない。
でも、先入見なく自然を観察すると、Aのあとには必ずBが起こるといった定型的なパターンの存在に気づくだろう。
AからBへのつながりは、必然性を帯びているように見えるだろう。
でも、AやBはただの物や事なのだから、自分が持続しているという意識はみじんももたない。

にもかかわらず、AとBはつながっているという認識をもつ人間は、それが日常生活で便利だからそうするのだ、というだけではない。その対象自体がもつなんらかの性質によって、それらがつながっていると見なさざるをえないということに気づく。その事態を人間が形容する場合、より物[もの]的な世界のなかでは、Aが原因で、Bはその結果だというようないい方をするかもしれない。またより事[こと]的な世界のなかでは、Aは定理で、Bはその系だというようないい方をするかもしれない。/いずれにしろ、そこにはある種の必然性があり、しかもその必然性は、一種の〈展開〉として、文字通りの意味では一瞬には与えられないものとして、存在するのだ。(43頁)

持続、すなわちある種の必然性の一種の展開。
著者はつづけて、ベルクソンの次の文章を引用し、「このさりげない一文は、おそらくベルクソンが書いた文章のなかでも、最も深いものの一つだろう」と書いている。

確かに、たとえ事物はわれわれのようには持続しないとしても、事物のなかにはなにかよくわからない理由があり、そのせいで、いろいろな現象は、すべてが同時に生起してしまうのではなく、継起的に出現するように見えるということを、われわれははっきりと感じている。(『時間と自由』第三章)

ここに記された思考のどこがどう「深い」のか、金森氏の記述はいまひとつ要領を得ない。
物質界にも徐々に生起する継起というものはある、たとえば「もし私が一杯の砂糖水を作ろうとした場合、とにかく私は、その砂糖が溶けるのを待たねばならないのである」(『創造的進化』第一章)。
そんな引用でお茶を濁している。
私も「深い」と思う。
物質と記憶』ではさらに「物[もの]的な知覚」ともいうべき事柄をめぐる議論が展開されるのだが、こうしたベルクソンの思考の「展開」そのものも含めて、このあたりのことはベルクソン哲学の要石的なところではないかと思う。
と、ここで止めておけばいいものを、物活論などをもちだすと、お里が知れるというものだ。
でも、ベルクソンの議論は、アニミズムを含めた「神話的思考」と親和的である。
中沢新一さんの「対称性論理」をもちだしてもいい。
思考には質料(具体的な素材)が必要だ。
そのような「感覚の論理」(レヴィ=ストロース)にのっとった具体的な思考(哲学的思考と言い切ってもいい)は、かならず物語のかたちをとる。