「写真は、映画によってみずからの静止性を発明した」

このところ毎晩のようにヒッチコックの映画を観ている。
なるべく安いDVDの新品を探して、全部で53ある長篇作品をひととおり揃えようと、これまで少しずつ買いためてきたものを順不同で観ている。
いま現在、25のタイトルが手元にある。
一番安く買ったのは、百均のダイソーからでていた『第3逃亡者』と『サボタージュ』で、これはどちらも税込み315円で入手した。
映画や音楽やスポーツについて語る語彙も発想も貧困なので、感想はなにも書けない。
ただただ画面を眺めて時間を潰しているだけのこと。それだけで十分に楽しい。
古い映画には、つねに新鮮な発見がある。
(それを具体的にいうとどういうことか、と問われても困る。なにしろ映画の体験は、私の場合、言葉にならない。)
トリュフォーヒッチコックの『映画術』など、関連の書物も徐々に買いためているが、なにか一つヒッチコック論か映画論でも書こうかといった野心があるわけではない(いまのところ)。
DVDで映画を観るなど邪道だ、といわれるかもしれないが、別にいわれても構わない。
それはもはや映画ではない。ならそれでいい。私は映画ではないものを観て愉しんでいるのだ。
それに、映画館では味わえない楽しみ方もある。その一つが、静止画の取り込み。
たまたま使っているソフトに、その機能がついていて、気になった画面をためしに切り取っているうち、やみつきになった。
何度もDVDを止めて、ベストショットを撮影するのに時間をかけるようになった。
2時間の映画を観るのに、うっかりすると3時間くらいかかるようになった。
主に、女優の表情、都市の情景、その他、それがどういう訳か自分でもわからないが、とにかく気に入ったショットを蒐集している。
1本の映画で最低でも20枚くらいはたまる。ためて、この後どう使うのかあてはない。
あてはないが、映画を観終わって、切り取った画像を1枚1枚チェックしていくのが無類に楽しい。
日本語字幕がついていたりすると、なぜかわくわくさせられる。


上に書いたことと関係するのかどうかわからないが、『レヴィ=ストロース神話論理』の森へ』に納められた鈴木一誌さんの「重力の行方──レヴィ=ストロースからの発想」という文章が滅法面白かったので、少しばかり抜き書きしておく。
レヴィ=ストロースと音楽という、ありきたりといえばありきたりな切り口からではなく、写真や映画(鈴木氏はこれをひとまとめにして「非連続を生きるという意味で、写真と映画をともに写真メディアと言っておこう」と書いている:171頁)からレヴィ=ストロースを論じる。
「映像を使用した人類学なのではなく、映像的な視角による人類学」(170頁)。
しかも、それが最後になって、重力と無重力の対比を通じて、写真・映画と音楽と神話が同じ次元で論じられる。
「写真が切りとる〈薄さ〉には、おそらく重力が写っていない。」(175頁)
「物音は現実世界に根をおろし、いわば重力をもっているのに対し、「音楽以外のなにものも模倣しない」音楽をなりたたせる楽音には、重力がない。」(178頁)
「重力のある地平と無重力の場の往還、つまりは「天と地のコミュニケーション」から神話の駆動力が生みだされている。」(177頁)
なんの要約にもなっていないが、とにかく「重力の行方」はスリリングな論考だった。
以下、とりわけぐっときた一節を引用しておく。

映画監督ロベール・ブレッソンはこう書きとめている。
「トーキー映画は沈黙を発明した」
 映画が音声をもつことで、表現としての〈沈黙〉が出現したのだと言う。サイレント映画における単層は〈沈黙〉をもちえなかったのだ。ブレッソンにならって言えば、写真は、映画によってみずからの静止性を発明したと思えるのだが、かといって、映画には運動があらかじめ与えられていたのではない。静止写真の集積にほかならない映画は、見る行為によって連続化され、運動を獲得する。静止写真の非連続性をつなぎえたことが、観客の「映画を見た」との達成感の基本にある。写真は世界の複写である、と言え、写真が世界の複製であるかぎりで、写真は世界へと連続している。対象に従属することなく、被写体の物語に誘引されずに、写真を、フィルムや印画紙上の感光材料や顔料にすぎない〈薄さ〉へと滞留させ、結果的に写真と世界のあいだに非連続をもちこむことが、写真を生きることにほかならない。(170-171頁)

ここに出てきた「物語」という語に関連して、もう一節、抜き書きしておく。

ドキュメンタリーは、地球上のあらゆる生きものが甘受せざるをえない重力を写すものなのではないか。重力に抗いながら身体を動かす労働者や病者をドキュメンタリーがよく写してきたのはそのためだろう。多種多様なテーマがえらばれているにせよ、それとは別に、重力とともに生きるほかない存在として生きるものを描きだす、これがドキュメンタリーを定義する最低限の基準だと思える。対する劇映画は、たしかに役者は重力下にあるにしても、物語は、重力を無化する権限をもっている。スーパーマンクンフー映画のように極端にではなくとも、殴り合いや殺陣においては重力が微細に省略されている。スローモーション撮影も重力感の操作の一方法だ。(174-175頁)

それにしても鈴木一誌さんの文章は刺激的で面白い。レヴィ=ストロースゴダールの対比など、ひりひりするほど興奮させられる。以前、入手しかけてやめた『画面の誕生』を早速買い求めて読んでみよう。


補遺として。「物語」について、中沢新一さんが『芸術人類学』で次のように書いている。

神話はこのような思考空間の上を動くのである。対称性の知性をとおして世界をみつめ、宇宙の中の人間の位置や人間がそこに生きていることの意味を思考しながら、その思考を物語構造をとおして表現する。物語がここでは論理思考のための役目を果たすことになる。物語は時間の流れにそって語られるものであるから、がっちりとした継起性をもっている。それは「はじまり」をもち、「おわり」をもつ。しかし、論理的な語りとちがって、その語りはバイロジックの生み出しているものだから、内部に特徴のあるねじれをはらむのである。(「神話公式ノート」76頁)

ここに出てくる「このような思考空間」というのは、ペンローズの三角形のように、あきらかな論理的矛盾(ねじれ)をはらんでいるのに、その矛盾が図形の全体に存在していて、それを局所化して取り出すことができない図形、「いたるところにねじれが含まれていて、しかしそのねじれを全部集めてみると、どことなく変だが全体としてはもっともらしい顔をしている」、そのようなパラドキシカルな図形をつくりだす思考空間のことだ。