2006-10-01から1ヶ月間の記事一覧

一期一会の科学──郡司ペギオ−幸夫『生きていることの科学』

最初に浮かんだのが「二人称の科学」というタイトルだった。 この書物は会話体で構成されているし、その内容からみてもこれがぴったりだと思ってずっと頭の中で温めていたら、『生命と現実──木村敏との対話』(河出書房新社)に収められた檜垣立哉氏の木村敏…

性愛工学──デカルト的雑想(4)

もう少しだけこの話題を続ける。 この話題というのは、『新しいデカルト』(渡仲幸利)の「情念論」をとりあげた個所に出てくる文章──「デカルトは、こうして、精神を自分に確保しておいて、情念を、その本来の持ち場へ送りかえした。情念は、物の秩序へと投…

ラブドールが/と見る夢──デカルト的雑想(3)

「ロボットにも情念をもたせうる」。 渡仲氏のこの一文を読んで、ブレードランナー・デッカード(ハリソン・フォード)とレプリカント・レイチェル(ショーン・ヤング)の「密会=性愛」のシーンを想起した(ベタだが)。 この「感情移入[エンパシー]テス…

究極の心身問題──デカルト的雑想(2)

「ロボットにも情念をもたせうる」。 デカルトの思考に立脚したこの渡仲幸利氏の省察をテコに、つぎに取りあげようと思っていたのは、性愛をめぐる機械・器具(プレジャー・マシンとでも?)のことだった。 文章は大筋を書いているので、あとは修復整理を施…

ロボットにも情念をもたせうるということ──デカルト的雑想(1)

渡仲幸利氏が『新しいデカルト』の「情念論」をとりあげた章で、「懐疑とは、脱ぐということだ。そして最後に「わたし」の底力が立ち現れる」(50頁)と書いている。 以下はきわめて真面目な話なのだが、脱ぐとはいうまでもなく衣服を脱いで裸になることだ。…

若冲とデカルト

京都にでかけて『若冲と江戸絵画展』を見てきた。 『ブルータス』(8月15日号)の特集「若冲を見たか?」をためつすがめつ眺めてイマジネーションをかきたててきたのが、今日、ようやく実物に出会えた。 感無量といいたいところだが、美術作品を鑑賞したあ…

デカルト的自己(3)

前回、「第二省察」の前半に出てくる「私は在る、私は存在する」という命題のなかの「私」はいわゆる「デカルト的自己」のことではない、と書いた。 少なくとも、省察のこの段階でその存在が見出された「私」は、河野哲也さんが『〈心〉はからだの外にある』…

デカルト的自己(2)

河野氏が『〈心〉はからだの外にある』の第一章で引用していた「「私はある、私は存在する」というこの命題は、私がこれをいいあらわすたびごとに、あるいは精神によってとらえるたびごとに、必然的に真である」は、六日間におよぶ『省察』の二日目、「第二…

デカルト的自己(1)

デカルトの『省察』を読んでいる。 今年の3月にちくま学芸文庫から出た新訳(山田弘明)で、この古典はなんとなく読んだ気になっていた(実は拾い読みしかしていない)ので、買ったきりで放置していた。 にわかに読み始めることにしたのは、「一人称による…