デカルト的自己(1)

デカルトの『省察』を読んでいる。
今年の3月にちくま学芸文庫から出た新訳(山田弘明)で、この古典はなんとなく読んだ気になっていた(実は拾い読みしかしていない)ので、買ったきりで放置していた。
にわかに読み始めることにしたのは、「一人称による六日間の省察」というウリの言葉(?)がとつぜん妙に琴線に触れたこともあるが、春先に半分ほど読みその後どういうわけかそのままになっていた『〈心〉はからだの外にある』(河野哲也)をサクサクと読み切り、読後の混沌がいまだにつづいている『生きていることの科学』(郡司ペギオ−幸夫)と合わせ技で「書評」を書いておこうと思いたったものの、サクサクどころか冒頭のあたりをウロウロするばかりでいっこう先へ進めないのは、河野氏ギブソン生態学的心理学を敷衍することでもって撃破しようとしている「デカルト的な自己の概念」なるものがどうやら腑に落ちないからではないかと気づいたからだ。
いわく、デカルトにとっての自己(「私はある」の「私」)とは純粋な思惟作用であって、身体を含めた物的世界から独立している。
しかし、デカルトが「「私はある、私は存在する」というこの命題は、私がこれをいいあらわすたびごとに、あるいは精神によってとらえるたびごとに、必然的に真である」(第二省察)と書くとき、そこで必然的に真であるとされた「私」は、「私はある、私は存在する」と発語(内語)したときの「私」である。
すなわち、デカルトにとって「思惟」とは「自分で自分の声(言葉)を聞くこと」(49頁)であり、純粋思惟としての自己とはそのような「声の物理性を忘却したときに得られるもの」(51頁)であるにすぎない。
このような「デカルト的自己」に対して、河野氏が提示する「エコロジカルな自己」は「徹底的に身体的な存在」(44頁)である。


《これまで主観主義的な哲学では、しばしば、「認識している風景のなかには自己は存在していない」とか、「見ている自分は見られない」と主張されてきた。その場合、知覚している自己は自分によっては知覚できないとされている。この主張は、私たちが何らかの神秘性や世界を脱した超越性を備えた存在であるかのように訴えており、これによって私たちの自己愛[ナルチシズム]は満足するだろう。自己を神秘化して悦ぶ考え方は、洋の東西、今と昔、文化や宗教の違いを超えて存在し、多くの人たちによって受け入れられてきたのである。それでは他人に不公平だというので、他者を神秘化する哲学もある。
 しかしそれは、単純に、能動態は受動態ではありえないという言語的・文化的な規則を現実に投影した幻想ではないだろうか。あるいは、視覚は、可視光線という媒体を利用する感覚であるゆえに、鏡などの光を反射させるツールがないと自己の姿が見えないという事実があるが、「見ている自分は見られない」という主張は、この事実を反映しただけのものではないだろうか(触覚でいえば、私は触っている自分に触りかえすことが可能である)。結局、私たちが身体的な存在であるかぎり、知る自己は同時に知られる自己なのである。知る自己だけに自己の本質を求めることはできない。知る自己とは、環境中で身体をもって行為する、知られる自己でもあるのだ。》(52頁)


ここに書かれていることが腑に落ちないというのではない。
ほんとうは、書き写しているうちだんだん腑に落ちなくなっていったのだが、そのことはいまの話題とは直接関係ないのでここには書かない。
でもそれだときっと忘れてしまうし、もしかすると実は「いまの話題」に大いに関係しているのかもしれないので、個人的な備忘録として、「能動態は受動態ではありえないという言語的・文化的な規則を現実に投影した幻想」という言い方が、「〈世界〉と〈人間の中にある(中で起こる)感覚・思考など〉と〈言葉〉の三者の関係」(保坂和志『小説の誕生』21頁)においてどういう意味をもつのだろうか、とだけ書いておく。
腑に落ちないのは、河野氏が「エコロジカルな自己」を対峙させている「デカルト的な自己」の概念が、ほんとうに「デカルト的」なのかどうかということだ。
といっても、それは要するに私がデカルトを実地で読んでいないことからくる疑念にすぎない。
だったらいちど読んでみることだ。読まずに不審がっていてもはじまらない。
というわけで、昨日から、河野氏が引用している『省察』を読み始めた。