もうひとつの記憶のかたち──四人称の記憶(4)

どうしても、この話題(「残光型記憶の存在様式=もうひとつの記憶のかたち」をめぐる)から離れられない。
以下に前回書き残したことの箇条書きや論証説明抜きの覚書を連ねて、一応の「決着」をつけておく。


◎残響型記憶は肯定的世界観につながる。たとえば「生きていることは歓びなのだと思う。生きていることのなかに歓びや苦しみがあるということではなくて、まずは生きていることそれ自体が歓びなのだ」(保坂和志『世界を肯定する哲学』)のような。


◎この「生きていることそれ自体」を直接体験することは、実は難しい。言葉でそれとして言い表わそうとすると、それこそ人は途方に暮れる。
 「生きていることそれ自体」は直接体験以外のなにものでもない(人間のような言葉や意識をもたない動物は「生きていることそれ自体」を直接生きているように見える)。だから、「『生きていることそれ自体』を直接体験すること」は「直接体験を直接体験すること」という、まるで意味をなさない営為を意味することになる。
 意味をなさないことを意味するのも言葉のはたらきである。だから、「『生きていることそれ自体』を直接体験すること」は「『生きていることそれ自体』を過不足なく言葉で表現すること」、あるいは「ある言語表現が『生きていることそれ自体』であるような、そのような言語表現を享受すること」、あるいは「ある言語表現が直接体験そのものであるような、そのような言語表現を創造すること」に限りなく近づいていく。(このあたりの「論証」はたんなる言葉遊びにかぎりなく近づいていくようで、とても居心地が悪い。)
 古東哲明さんが、プラトンハイデガー哲学書などというものはない、彼らの著作はプラトン哲学やハイデガー哲学について何も書いていない、そこに書かれているのは読者をある場所へはこぶための指標のようなものだ、といった趣旨のことを書いていた(『現代思想としてのギリシア哲学』『ハイデガー=存在神秘の哲学』)。その「ある場所」というのは、「生きていることそれ自体」を直接生きる場所のことなのではないか。しかし、それは言葉や意識をなくした人間が動物のように生きている場所というわけではない。それは、実はいまここにすでにある。(ほんとうは、それは「いまここにすでにある」などと言葉で表現することはできない。)


◎上に述べた「『生きていることそれ自体』を直接体験すること」を「他者の『生きていることそれ自体』を直接体験すること」と理解すれば、少しは意味が通りそうだ。しかし、定義によって、「他者の『生きていることそれ自体』」を直接体験する主体は当の「他者」以外にはありえないのだから、この言い換えもまた意味をなさない。
 仮に、「他者の『生きていることそれ自体』」を直接体験する「私」がいるとして、端的にいってそのような「私」は「他者」そのものである。あるいはこの問題を、「伝達も共有も交換も不可能である情欲を、交換可能なものとして思考するためにはどうしたらいいか」というかたちで問うことができるかもしれない。兼子正勝によると、これはピエール・クロソウスキーが『生きた貨幣』で追求しているただひとつの問題である。


◎話が錯綜してきた。残響型記憶は「伝達も共有も交換も不可能である記憶を、交換可能なものとして思考する」肯定的世界観につながる。その「つながり」をもたらすものは、たぶん言葉ではない。それは屋外もしくは「言葉の外」にある。
 残響型記憶が世界の肯定につながるとすれば、残光型記憶は世界の否定もしくは切断につながる。世界の(不断の)創造といっていいかもしれない。そのつど一回性をもって、この世界で初めてのものとして何度も繰り返し「いまここ」に立ち上がってくる記憶? それ(「いまここ」)は室内もしくは「言葉の内」にある? 言葉の意味が読まれるたび、そのつど立ち上がるように? たとえば、言葉を知らない者は夢を見ないなどということがいえるとすれば(夢を夢として語れないといえばあたりまえの話だが)、夢見る身体は言葉の内にある? 残響型記憶は忘却のかたちをとりえないが、残光型記憶の実質は忘却である?


ここから先があいかわらず朦朧としている。まだまだ生煮えなのだ。
先に進むため、春先に読みかじったきり自分の中で「整理」をつけていなかった『〈心〉はからだの外にある』(河野哲也)を残響型記憶に、『生きていることの科学』(郡司ペギオ−幸夫)を残光型記憶に、それぞれ関係づけて読みなおすことができる。
なんとなくそんな気がするが、これだけはやってみなければわからない。


     ※
ここで終わったのでは、冒頭に掲げた副題(「四人称の記憶」)が宙に浮く。
以下は、ほんとうの「他日」のための個人的な備忘録。


いま映画系の書物を数冊、同時進行的に眺めている。
『映画の構造分析──ハリウッド映画で学べる現代思想』(内田樹)と『画面の誕生』(鈴木一誌)と『『ブレードランナー』論序説──映画学特別講義』(加藤幹郎)と『ブレードランナーの未来世紀──〈映画の見方〉がわかる本 80年代アメリカ映画カルト・ムービー篇』(町山智浩)の四冊。
いずれも面白いが、重ね読みするともっと面白い。
ここでは、二つのエッセイに触発されていま頭の中に巣くいつつあるもの(ひとつの観念、あるいは生煮えの概念?)を粗描するための断片的な素材のみ記録しておく。


鈴木一誌の「遠くへ──侯考賢『戯夢人生』」(『画面の誕生』)から。
「映画を思いだすことのなつかしさとでも言ったらよいだろうか。クローズアップを使用しないキャメラ。十分な距離をもって見つめられる人物。風景の遠望。/なにかが終わったあとの映像を見つづけたのではないかという感触が残っている。」(11頁)「…何にも所属しない風景の記憶は残る。」(19頁)「フレームのなかで演じられる劇は、屋外のできごとなのか、あるいは室内でのことなのだろうか。」(19頁)「映画が、映写幕にフィルムからの透過光を投げかけたときにメディアとしてあるのだとすると、映写室ですでに巻きとられ過去となったフィルムと、これから投影されるはずの未来をになうフィルムは実在しないことになる。」(26頁)「観客は過去と未来を見ている。待ち焦がれ思いだすことの総和として映画はある。」(26頁)
「それでもわたしはコマを繋がねばならない。運動体のないところに運動をつくることが自分であるのだろう。」(27頁)「生の姿を完成させるために現在は過去になる。(略)わたしの生とは、わたしが記憶しうるかぎり無数の生の姿の配列であり、彼の生とは、わたしが記憶するかぎりの彼の生ま身の配列なのだ。」(27頁)「カットはそれ自体で美しく、かといってほかのカットに連続しないわけではない。」(28頁)「映画をつくることは現在を殺すことだ。」(30頁)「見えないものを見えているかのように描写するのではなく、見えないものを見えないものとして描く。」(35頁)「彼は観客であるわたしを見ている。」(36頁)「ひとりという切断された非連続体がどのようにわたしというひとりに繋がるのか。距離を埋めるのではなく、隔たりを回廊にして、運動体のない運動を生みだす回路がさぐられている。見ることが見ることと向き合う総和が、わたしの見ることだ。」(38頁)


内田樹の「「四人目の会席者」と「第四の壁」」(『映画の構造分析』)から。
「「私がひとりきりで海辺にたたずむ姿」を遠景からとらえている、というような視覚記憶を私たちは持つことができる。これは私が見たものでもないし、その場に居合わせた骨肉を備えた「誰か」が見たものでもない。それは抽象的な、ほとんど観念としての「誰か」の視線がとらえた風景である。/私たちの視覚記憶はそのようにつねに「私と誰か」の合作である。その「誰か」は具体的な人間であることもあるし、私を見つめている抽象的で機能的な「視線」である場合もある。/私たちは「自分の肉眼が見ているはずのないもの」を自分の視覚記憶として思い出すことができる。これは厳密に言えば非合法的な記憶操作だが、私たちはみな無意識にそのような記憶操作を行っている。/しかし、そのような非合法的な記憶操作を犯しても、それでもなお「見えないもの」が残る。」(190頁)
「なぜヒッチコックは「第四の壁」を構造的に画面から排除したのか。別に私に確たる答えがあるわけではない。私に分かるのは、「この風景を見ているのは誰なのか?」という問いを、映画を見ている観客に、意識させないように意識させる、という矛盾した要請をすぐれたフィルムメーカーはみずからの技術的な課題として引き受ける、ということだけである。」(204頁)
「すぐれたフィルムメーカーは「この映画の表象秩序を基礎づけている視線は、誰のものなのか?」という問いにそれぞれの映像的な解決を与えようとする。/小津安二郎が『秋刀魚の味』で試みたような、観客を「物語の中にあるのだが、そこには誰もいないはずの場所」に誘導するというのはひとつの技術的頂点であるだろう。ヒッチコックは『裏窓』で「すべてがそこから見られる第四の壁そのもの」についての故意の言い落としに観客がいつ気づくのか、皮肉な挑戦を試みた。(略)私たちが「見る者」であろうと欲望するかぎり、私たちは決して自分が「どこから」見ているのか、「何が」私たちに見ることを許しているのかを主題的に問うことがない。その点について「一歩先んじる」ことによってのみ、フィルムメーカーは観客を「完璧に誘導する」ことができる。そのことをこの二人は熟知していたのである。」(205頁)
「表象秩序を制定するものの不可視の権力の座を実際に占めているのは、その表象秩序に映り込んでいる私たち自身だ…。「見られることなく私たちを見ているもの」は私たち自身だ…。/表象の天才たちはその事実を、秘やかな目配せによって、私たちに告知するのである。」(209頁)


「四人目の会席者」や「第四の壁」から、「四人称の記憶」という言葉が浮かんできた。
「四人称」という語は、横光利一の「純粋小説論」に出てくる。
キルケゴールの『反復』は映画体験の先取りではなかったか。あるいは横光利一の「四人称」とはカメラ・アイのことではなかったか。」
ネットで検索していて、自分が昔書いた文章に出あった。
このことをもう一度、残光型記憶(もうそんな勝手な言葉は使わなくてもいいと思うが)の実質とあわせて考えなおしてみたい(ほんとうの「他日」に)。