一生に一度しか書けない書物


石井洋二郎『告白的読書論』(中公文庫)


 書店の新刊本のコーナーで目にして以来、なぜか気になってしかたがなかった。
 あとがきに「思春期から青年期にかけての読書体験がもたらしてくれたなんともいえない甘酸っぱさやほろ苦さには、やっぱり忘れがたいものがある」と書いてある。
 共感を覚えつつも、自分にとっての「甘酸っぱさやほろ苦さ」の記憶がいかに不鮮明であるかを思い知り、ついに訪れることのなかった読書体験の累々たる屍に思いがおよんだ。


 読み進めながら、あまりの共通項(読書体験の共有)の多さに驚き呆れかつ震えるほどの悦びを感じていた。
 まるでこれは私が書いた、あるいは私が書くべき文章ではないか。そんな思いがわきあがり、ついには著者の真似をして、私自身の「告白的読書論」を構想し始めていた。


 読み終えて、これは私小説のひとつのあり方なのではないかと気づいた。
 小中学生から思春期、高校時代へという特権的な時間と特異な身心の状況のもと、書物との接触という官能的な経験のなかから立ち上がってくる諸々の観念や奇想天外な「空想[そらおも]い」(223頁)や淫靡な妄想やらを、まとまった言説、整序された概念のうちに補足される前のなまなましい形姿においてすくいだし、言葉にする。
 それはきっと、誰もが一生に一度は書ける、いいかえると一生に一度しか書けない幸福な私小説へと、一冊の美しい書物へと結実していくだろう。


《要するに、読書は固有の時間と空間と不可分の、けっして再現することのできない絶対的に一回きりの行為なのだ。だからこそ逆にいえば、わたしたちは同じ本を何度開いてみても、そのたびに「別の本」を読むことができる。一冊の本を相手にして、何度でも異なる読書体験をすることができる。
 この意味で、読書行為はわたしたちの身体感覚と密接に結びついている。一冊の書物を手に取り、活字を目で追い、指先でページをめくり、紙の匂いを鼻から吸いこむ──それだけでも語感のうち少なくとも三つの感覚(視覚、触覚、嗅覚)が動員されるが、場合によっては、聴覚(そのときに流れている音楽)や味覚(そのときに味わっている紅茶)などが経験の形成に関与することもありうるだろう。
 読書はともすると純粋に知的ないとなみであるかのように思われがちだが、本の内容は忘れてしまっても、その本を読んだときの身体的な記憶だけは消えないということは往々にしてあるものだ。》(271頁)


 珠玉の言葉だと思う。まるで読書行為とは人生の出来事(たとえば恋愛体験)そのものであると言わんばかりではないか。


 その他、心に残った言葉の落ち穂拾い。
 「難解」で「むずかしい」本、たとえばニーチェの『ツァラトゥストラ』やランボーの詩をめぐって。「わたしたちはその「わからなさ」をそのまま受けとめ、そこにうごめいている言葉のエネルギーに身をゆだねればそれでいいのである。ニーチェランボーが「わかる」というのはそういうことだ。」(183頁)
 「危険な書物」の効用をめぐって。「四十になっても五十になっても、一冊の書物を読むことで、体内に沈殿する思考の淀みが一気に浚渫され、それまであたりまえのように考えていたことが考えられなくなるということ、そして今度は晴れやかに澄みきった自由のなかで、逆にそれまでけっして考えられなかったことが考えられるようになるということは、確かにあるものだ。」(223頁)