2008-03-01から1ヶ月間の記事一覧

「逆翻訳」と「逆伝達」

昨日、今日と、ジャック・デリダの『声と現象』(高橋允昭訳、理想社)に「付論」として収められた「記号学と書記学」を読んでいる。 ジュリア・クリステヴァによる五つの質問に、デリダが寄せた詳細な回答。その第一の回答文を読んでいて、思いついたことが…

物のあはれを知らなければ「考える」などということは始まらない

『小林秀雄の恵み』を書くことで、橋本治さんは、結局のところ、何が言いたかったのか。 終章「海の見える墓」で、橋本治さんは、「小林秀雄を必要としていた日本人とは、なにものだったのだろう」と問い、「小林秀雄の思想は、一言で言ってしまえば、「読む…

今まさに目の前に出現する現在形

橋本治さんの『小林秀雄の恵み』は、第九章「「近世」という現実」、第十章「神と仏の国」と続く。 「悲しいことをただ″悲しい″と受け入れたい」(373頁)本居宣長がいて、その本居宣長のことが、橋本治さんにはよく「分かる」。しかし、それは、小林秀雄が…

桜と水の音──「空白」という形で存在する神

橋本治さんは、『小林秀雄の恵み』の第八章「日本人の神」で、とんでもないことを言い始める。 そこには、小林秀雄にとっての「学問する知性」とは、「テキストの中に″音″を聞き出す感性」を備えることであると書かれている。それはまた、「物のあはれ」のこ…

小林秀雄の恵みとはなんだったか

『小林秀雄の恵み』の第五章「じいちゃんと私」で、橋本治さんは、「三十七歳の私が『本居宣長』を読んで得た感動は、以上のようなものである。」と、次のように語っている。 《その本の中には、「学問する本居宣長」がいて、学問する本居宣長のありようの根…

桃尻語のルーツ

『小林秀雄の恵み』の第三章から、もう一つ抜き書きしておきたい。 《長大なる『本居宣長』には目次がない。その必要がないのは、全篇が五十節だか五十章に分かれているこの本のどこにも「章題」となるようなものがないからである。ただ(一)(二)(三)………

「私的な文芸評論家」としての小林秀雄=橋本治

昨日、「橋本治さんが追いかけている小林秀雄にはそれほど関心がわかないが、小林秀雄を追いかけている橋本治さんは滅法面白い。」と書いた。このことについて、少し補足しておく。 「橋本治さんが追いかけている小林秀雄」というのは、「私的な歌人」として…

「私的な歌人」としての本居宣長

橋本治さんは、『小林秀雄の恵み』の第二章に、「私は、本居宣長がその最期において「私的な歌人」という全うの仕方を選んだのだと思っている。」と書いていて、私はそれをとても面白いと思っている。 小林秀雄が追いかける本居宣長には関心がわかないが、本…

身体が夢見る「わたし」が幻想する「身体」・その他の話題

昨日書いたことと関連して、岩波書店から出ている「身体をめぐるレッスン」の第1巻『夢見る身体』の序論、鷲田清一さんの「身体という幻[ファンタスム]」から、気に入った言葉を二つ引いておく。 《身体は物として知覚されるより先に幻想される。あるいは…

「物のあはれを知る心」と「学問する知性」

昨日抜き書きした文章の前段で、橋本治さんはこういう趣旨のことを書いていた。 「敬語という制度」の中で生きている身分制下の中世貴族にとって、その制度から自由になって「自分の生の声」を発することができるのは、和歌の遣り取りを通じてだけだった。そ…

生の声を発せさせる土壌=仕掛けとしての『源氏物語』

橋本治さんの『小林秀雄の恵み』に、こんなことが書いてある。 《もちろん、『源氏物語』の作中歌には、登場人物達の「生の声」がある。そして、登場人物達の「生の声」は、作中歌にしか聞かれない。なぜかと言えば、『源氏物語』は、作中人物に対して作者が…

「特殊解」としての思想──『思考するカンパニー』

熊野英介著『思考するカンパニー──欲望の大量生産から利他的モデルへ』(幻冬舎)。 本書は、事業家という生き方を選んだ著者が、利他的モデルで世の中を変えたい、新しい産業革命をおこしたいという夢にかけた自らの思いを綴り、メッセージとして社会に問う…