小林秀雄の恵みとはなんだったか

 『小林秀雄の恵み』の第五章「じいちゃんと私」で、橋本治さんは、「三十七歳の私が『本居宣長』を読んで得た感動は、以上のようなものである。」と、次のように語っている。


《その本の中には、「学問する本居宣長」がいて、学問する本居宣長のありようの根本を肯定し、凝視する小林秀雄がいる。小林秀雄を、ただ「ゴッホモーツァルトランボーの人」とだけ思っていた三十七歳の私は、小林秀雄本居宣長を「異質な二人」としか思っていなかったのだが、右眼と左眼が相俟って事物の立体性を明らかにするように、『本居宣長』という本の中で、異質な二人は「人にとって意味のある学問」というものを、浮かび上がらせていたのである。
 だから、『本居宣長』を読んだ私は、「学問と見[まみ]えたい」と思う。我が身の内に「既にあった」と知る「学問する心」を、表沙汰にしたいと思う。「学問する心」が既に備わっていたればこそ、三十七歳の私は、十一歳の[時、はじめて「大学」を読み、「天子ヨリ以テ庶人ニ至ルマデ、壱是ニ皆身ヲ修ムルヲ以テ、本ト為ス」という名高い言葉に至って、非常に感動した]中江藤樹のように、『本居宣長』に感動したのである。
 だから私は、小林秀雄本居宣長を、それ以上読みたいとは思わない。それをすることは、小林秀雄本居宣長の言うことをなぞるだけになって、せっかく我が身に勃興して来た「学問する心」を、矯めることにしかならないからである。
 私の行くべきところは、「小林秀雄本居宣長の懐」ではない。「私のところへ来る必要はない。行きたいのなら、?学問する心?が意味を持つと思える方向へ進め。」というのが、『本居宣長』を読んで得た私の最終的な実感で、それこそが「小林秀雄の恵み」なのである。この個人的な「恵み」は、十分に一般的な「恵み」だろう。
 私は、「小林秀雄になること」を目標にしない。「本居宣長になること」も同様である。いかに偉大であっても、彼等は過去の日に存在したその時代のオリジナルで、今の時代にそれを踏襲しても意味はない。また「踏襲する」と考えることも無意味である。偉大なる彼等は、読者にそんなことを望むはずもないのだから。》(173-174頁)


 この、『本居宣長』を読んで、「我が身の内に「既にあった」と知る「学問する心」」というところが、とりわけ、「我が身の内に「既にあった」」というところが、なかでも、我が「身」の内に、というところが肝心だ。
 橋本治さんにとっての小林秀雄の「恵み」とは、昨日書いた、小林秀雄本居宣長による桃尻語の「是認」(日本古典文学の桃尻語訳に対する是認)ということと、それから、第八章以下の議論に出てくる、「『本居宣長』を書く小林秀雄は、彼の書くべきことに届いていない」という小林秀雄に対する「断罪」(354頁)もしくは「註釈」(355頁)の作業を(ただし、橋本治さん自身は「断罪するためではない」と書いている)、橋本治さんに促したことの二点だが、なによりも、そうした「学問する心」が我が身の内に「既にあった」ということ、その啓示がもたらされた「感動」を言うのだろう。


     ※
 第五章の終わりあたりから、第六章「危機の時」を経て第七章「自己回復のプロセス」まで、橋本治さんは、小林秀雄の『無常といふ事』を、小林秀雄の「転回」と、それがもたらした危機からの自己回復のドラマとして解読している。
 実に見事な読解だ。(『桃尻語訳 枕草子』から『絵本 徒然草』『窯変 源氏物語』『双調 平家物語』へと続く、橋本治さん自身の精神のドラマを告白しているのではないか、と疑わせるほどだ。)
 小林秀雄の「転回」とは何か。初めて能を見たシロートの衝撃、それである。
 太平洋戦争が始まった翌年、小林秀雄は、世阿弥作の「当麻」を観て、衝撃を受けた。後ジテ(中将姫の霊)の舞姿の「美」に圧倒されたのである。


《美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。彼[世阿弥]の「花」の観念の曖昧さに就いて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされているに過ぎない。肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥かに微妙で深淵だから、彼[世阿弥]はそう言っているのだ。》(「当麻」)


 肉体(美しい「花」)の動きの方が、観念(「花」の美しさ)の動きより遥かに微妙で深淵なのだから、肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい。「「花」とはなにか?」ではなく、「自分の演ったことに花は宿っていたか?」を問え。修行を怠るな。
 世阿弥の教え、「されば、花とて、別[べち]にはなきものなり。物数を尽して、工夫を得て、珍しき感を心得[う]るが、花なり。」を、小林秀雄はそのように理解した。『風姿花伝』は「美学書」ではなく、「職人心得」であると理解した。
 これが、小林秀雄の「転回」である。それは、「敗北」からの転回でもあった。
 「当麻」に続いて書かれた「無常といふ事」では、そのタイトルとは裏腹に「常なるもの」(歴史の不動)という事が書かれている。しかし、そこではまだ、小林秀雄は危機から回復していない。
 これに続く「平家物語」で、小林秀雄は、平家物語を「大音楽」と捉えた。「「平家」の人々はよく笑い、よく泣く。僕等は、彼等自然児達の強靭な声帯を感ずる様に、彼等の涙がどんなに塩辛いかも理解する。誰も徒に泣いてはいない。空想は彼等を泣かす事は出来ない。」これが、小林秀雄にとっての「大音楽」であり、「常なるもの」なのである。
 「徒然草」でも、小林秀雄の「リハビリテーション」は続く。テキストは「スローガン」かもしれない。「しかし、テキストを書く人が揺るがなかったら、その人のあり方こそが、自分自身のテキストになる。」(269頁)徒然草の作者は、そのような「テキスト」ではなかった。
 「西行」に至って、この「常に和歌の主題に「自分自身」を据える──つまり、「私小説歌人」」(272頁)である西行法師という「テキスト」に出合って、小林秀雄は自己を回復する。我は西行、これである。


 これでは要約になっていない。もともと要約などしようとは思っていない。橋本治さんの文章を抜き書きするのが楽しくて、この作業を始めた。
 第七章の「我は西行」の節(270-276頁)は、できれば丸ごと書き移しておきたい。
 西行については、第八章で再び取りあげられる。そこで、橋本治さんは、とんでもないことを言い出す。