2006-11-01から1ヶ月間の記事一覧

私家版・三位一体モデル

前々回(11月18日)、自分専用の三位一体の図を考えていると書いた。 それは「デカルト=ベルクソン」と「歌論=ギリシャ悲劇」と「金融=貨幣」の三つの柱でできているとも書いた。 その後このアイデアがどんどん熟成していった、というようなことはまるで…

大徳寺黄梅院見聞抄録

昨日、小雨まじりの京都紫野にでかけ、大徳寺に数ある塔頭のひとつ黄梅院を訪れた。 特別公開最終日、靴下だけの足下からひたひたと浸透してくる冷気を気にしながら、本堂室中の雲谷等顔筆襖絵「竹林七賢図」や大徳寺開祖大燈国師の遺墨を扁額に懸けた「自休…

『三位一体モデル』

堀田善衛の『定家明月記私抄』正続二篇を買い求めたちょうど同じ日に、中沢新一『三位一体モデル TRINITY』(ほぼ日ブックス)を購入した。 中沢新一の聖霊論、三位一体論は『東方的』(1991)や『はじまりのレーニン』(1994)あたりからその姿を世にあらわ…

『定家明月記私抄』

デカルト談義はちょっと休憩。 先日、夢のなかで藤原定家の『明月記』が出てきた。 『明月記』が出てきたとはおかしな言い方だが、この高名な、しかしこれまで見向きもしなかった書物をいちど読んでみたいとか読まねばならないといった思い、というのではな…

デカルト的二元論(2)──「デカルト的二元論」狩り

そもそも『省察』を読むきっかけになったのは、河野哲也『〈心〉はからだの外にある』のデカルト批判に躓いたからだ。 そこでいわれていること、たとえば「「私はある」という命題は発話されなければならず、したがって、その「私」は話す者でなければならな…

デカルト的二元論(1)──ある形而上学的探偵物語

11月3日に書いたことの続き。 「これは誰のわたしなのか。」加藤幹郎氏のこの言葉は、それが使われた前後の文脈を抜きに単独でとりだしてみると、ずいぶん「使い勝手」がいいものになる。 デカルト『省察』の二日目にでてくる「私は在る、私は存在する」…

『ルネ 青白い肌の少年』

これはまだ世にあらわれていない書物の話である。 小林道夫著『デカルト入門』(ちくま新書)を読みながら、『ルネ 青白い肌の少年──あるいは「死せるデカルト」の生涯と思索をめぐるセブン・ストーリーズ』に思いをめぐらせた。 以下、ノートに書きつけたも…

考えているのは誰なのか──「四人称世界」をめぐって(その4)

なにごとかを考えているとき、私は四人称で考えている。つまり死者たちと会話している。 ※ 死者たちの世界はいまここにある世界と通底している。それは言葉、書物、映像、音楽、その他のメディアを透過して、いまここにある世界に到来する。考えているとき、…

これは誰のわたしなのか──「四人称世界」をめぐって(その3)

「透過体──ジャン=リュック・ゴダール『映画史』」(鈴木一誌『画面の誕生』)の7節「モアレ」からの切り取り。 ◎連続映像は、滲みの集積なのだ。映画においてあらゆるものは動いている。動かないレーニンの死体も、送られつづけるフィルムが明暗を維持し…

映画は死者を死なしめない──「四人称世界」をめぐって(その2)

鈴木一誌の『画面の誕生』を机上に常備している。 一節ずつ、毎日読みつづけている。それ以上は読まないことにしている。 この書物を読み終えてしまう日が来るのをなるべく先延ばしするために。 一昨日、『小説の誕生』の6章を読んだちょうどその日、ゴダー…

魂のかたち──「四人称世界」をめぐって(その1)

最近、死をめぐる話題が私の脳髄をとりまいている。 死の問題というよりは、不死性や死者の記憶(遺族の中に生きている死者の記憶のことではなく、文字通りの意味での死者がもつ記憶)の問題というべきかもしれない。 『エロコト』の対談で、中沢新一は「人…