映画は死者を死なしめない──「四人称世界」をめぐって(その2)

鈴木一誌の『画面の誕生』を机上に常備している。
一節ずつ、毎日読みつづけている。それ以上は読まないことにしている。
この書物を読み終えてしまう日が来るのをなるべく先延ばしするために。
一昨日、『小説の誕生』の6章を読んだちょうどその日、ゴダールの『映画史』をめぐる「透過体」という文章の9節にさしかかった。
これはもうその全文を引用し、永久保存しておきたい文章だった。
「映画は、時間の面的な表象であるはずのコマ相互を重ね、透過し、位置の変化を読みとることで成りたつ」(105頁)という断片は、それだけで『映画史』のみならず「運動体のない運動」をめぐるメルロ=ポンティの引用に始まる本書そのものを「縮約」さえしている。
まだ全体の三分の一ほどしか読んではいないが、そう断言しておく。
また、「死者を前にしたときに感じるのは、一個の人間の単独な喪失であるよりかは、張力がみなぎっていたはずの広域な場の喪失、レイアウトの変化である」(106頁)という断片は、保坂和志が引用する荒川修作の「最終的に、肉体というものは自分の周りに違う環境によって物質的にも表現される」という発言に接続される。
「空間とは、つまり精神である。」(渡仲幸利『新しいデカルト』165頁)
いや、これ以上何も書き加えず、前後の脈絡にもこだわらず、「白と黒」のタイトルが添えられた、このたかだか6頁にも満たない短い文章のそこかしこに結晶のように鏤められた言葉を拾い集めておくことにしよう。
それはナレーションの引用から始まる。


◎「つまり、20世紀の夜明けには、/こんなことが起こっていた。/テクノロジーは/生を複製することに決め、/そこで写真と映画が/発明された。」


◎さまざまな紆余曲折がありながらも結局、読者や観客は、写真と映画を「生の複製」として認めてきた。連続して動くことは、生命の独占物ではなくなった。つまりは、生けるがごとくの「生の複製」である写真や映画は、「生命からそのアイデンティティ」を奪ったのだ。では逆に、人生が映画から奪ったままなのは何か。「人生」にあって、「生の複製」にないものは、死ではないのか。


◎「実際、夢のなかでは映像がこのようなことをするようにみえることもある。なぜなら、最初の映像が消えて次に違う映像が別の場所に生ずると先の人物が姿勢を変えたように見えるのだから。」


◎『ゴダール 映画史 テクスト』によれば、これはルクレーティウス『万物の本性について』からの引用であり、「このようなこと」とは、「死者が夢の中で動き回ったり手足を動かしたりすること」を指す。ちがう映像同士が連合して動きをつくりだすことが語られている。ルクレーティウスは、「あらゆる種類の映像が至る処に浮遊している」(『物の本質について』樋口勝彦訳、一九六一年、岩波文庫)として、夢のなかでは、生者と死者の区別がつかないと述べている。


◎写真の静止した時間は、映画の動きによって喚起された、と言えよう。写真の静止性が、映画に動きや音声、さらに色彩をとり込ませ、「生の複製」性を高めさせたとも考えられる。
 われわれの時間意識が、時の層が刻々とスライス状に累積することとしてあるならば、そのイメージは写真によって形成されている。写真を見るものは、見ている自分の現在との時間差を写真の膜面に認める。写真は、その表面にかつての光を保存しているが、光線の記録がそこにあるということが、親しみやすさにではなく、絶対的な時間差として見る者を包囲する。写真の表層は、遠さへと向かう。写真は、死者の圏域にあるメディアであるのかもしれない。写真は死者を死なしめ、映画は死者を死なしめない、これが実感に近い。写真と映画ふたつのメディアのちがいであるように思われる。
 いっぽう映画は、時間の面的な表象であるはずのコマ相互を重ね、透過し、位置の変化を読みとることで成りたつ。面と面は接近しようとし、密着した結果のたがいのずれが見られる。そのずれが視覚に運動を発生させるのだが、コマの記憶としては見る者に残らない。面であることは観客のうちに吸収されてしまう。
 生者と死者の区別がつかない点で、映画は夢と通底する。(略)ただ、夢のなかであれほどなまなましくふるまっていた死者は、まどろみから覚めれば霧散している。夢から覚めた瞬間、感じるのは場の変更である。夢のなかではすべてが死者なのだ、と書き手は目覚めながら言うこともできる。


◎きのうまで人や物と緊密な関係の網目を維持してきたひとが、いまはひとりで横たわっている。実際、死者を前にしたときに感じるのは、一個の人間の単独な喪失であるよりかは、張力がみなぎっていたはずの広域な場の喪失、レイアウトの変化である。
 現実は死とともにあり、その死に遠近法はない。しかしわれわれは世界にグリッドをあてがいながら生きている。グリッドは死を埒外のものと前提し、死者の出現によって、その人為的な格子の危うさが照らされ、遠近法が揺らぐが、またなにごともなかったかのように生という面は均衡をとり戻す。死は、面ですらないのだろうが、生を批評する面、生の裏側にある面だと考えるほかない。われわれはその生と死の差分を生き、同時に、生と夢を往還する。いたるところに、生と「生の複製」の差分がある。