2008-06-01から1ヶ月間の記事一覧

クオリアと言語と記憶と感情(5)

「抽象的」の二つ目の意味は何か。 念のために一つ目の意味を確認しておく。それは言語が構成する概念の性質をいうものだった。たとえば「言語を絶したクオリア」という概念は抽象的である。言語の世界は抽象的概念でかたちづくられている。そういうことだっ…

クオリアと言語と記憶と感情(4)

これまでのことを振り返っておこう。 池谷裕二さんが『進化しすぎた脳』に気になることを書いていた。それは次の三つの主張にまとめることができる。 1.クオリアとは抽象的なものである。 2.抽象的なものは言葉が生み出すのだから、クオリアも言葉によっ…

クオリアと言語と記憶と感情(3)

クオリアとは抽象的なものである。抽象的なものは言語が生み出すのだから、クオリアも言語によって生み出される。池谷さんのこの主張は、古典的な三段論法にのっとっている。 だから正しいといえるためには、そこで使われている言葉の定義が同じでなければな…

クオリアと言語と記憶と感情(2)

まず、クオリアが「抽象的なもの」であるという説をめぐって。 基本的に、というか最終的に、私はこの考えに賛成したい。プロの脳科学者に向かって、市井の一素人が「賛成したい」もあったものではないと思うが、これは十代の理系の中高生を相手にしたゼミで…

クオリアと言語と記憶と感情(1)

池谷裕二さんの『進化しすぎた脳』(朝日出版社)に、ちょっと気になる発言が出てくる。 ある「単純な意識の実験」(脳波をモニターしながら脳の活動を調べる)によると、運動前野が動き始めて1秒も経ってから「動かそう」という意識が現われた。(リベット…

なぜ「なぜ意識は実在しないのか」と問うのか

永井均著『なぜ意識は実在しないのか』(双書哲学塾,岩波書店)。 「なぜ意識は実在しないのか」って、なんだか変な問いだと思いませんか? これが「なぜ神は存在しないのか」だったら、無神論の立場から神の不在を論証しようとしているのかなと推測できま…

大森哲学の流れとよどみ──『大森荘蔵』

野矢茂樹著『大森荘蔵──哲学の見本』(講談社)。 著者は本書で、大森哲学の「流れ」を、その源流の最初の一滴から上流・中流・下流へと、死後にも続くその「よどみ」にいたるまで、大森ゆずりの明晰簡明な言葉で語っている。 目の前にコーヒーカップが見え…