なぜ「なぜ意識は実在しないのか」と問うのか

 永井均著『なぜ意識は実在しないのか』(双書哲学塾,岩波書店)。


 「なぜ意識は実在しないのか」って、なんだか変な問いだと思いませんか?
 これが「なぜ神は存在しないのか」だったら、無神論の立場から神の不在を論証しようとしているのかなと推測できます。あるいは、有神論の立場から逆説的な論法で神の存在証明を企てているのかもしれません。でも、そのどちらであっても、無神論と有神論の対立を前提にするかぎり、この問いはまっとうです。
 ところが、意識が実在するかどうかをめぐる意見の対立は、神の存在をめぐる対立ほどには明確ではないと思います。
 そんなことはないと反論されるかもしれませんね。一方に、意識なんてものはない、そんなものは脳がつくりだした幻だと考える唯物論者がいて、他方に、いや違う、そう考えること自体が(脳が存在すると考えることも含めて)実は意識現象なのだから、君がそう考えているかぎり現に君の意識はある(意識だけがある)と主張する唯心論者がいる。
 でも、よく見てください。「なぜ意識は『存在』しないのか」ではなくて、「なぜ意識は『実在』しないのか」ですよ。
 意識というものがこの世のどこかに(本やスクリーンの中でもいいんです)存在するかどうかではなくて、今・ここで・現実に存在しているかどうか。「存在」ではなく「実在」が問われているとはそういう話です。いやあ、昨日までは確かにいたんですがねえ、あいにく今日は……、とか、かつては神がいたが現代では神は死んだ、といった話とはまったく次元が違うんです。
 それに、脳がつくりだすかどうかは別として、唯物論者や唯心論者が想定している意識って、誰にでもある「一般的な意識」という概念のことです。あるいは、観察可能な「心理」のことです。そういう意味での意識、つまり唯物論者や唯心論者や心理学者がいう意識なんて実在しない。だって、「一般的な意識」なんて見た人は誰もいないのだから。
(永井さんがいう意識は、ほんとうは「今・ここで・現実に存在している」ともいえないものです。「今・ここで・現実に存在している意識」もまた、言葉にしてそういうと、誰にでもあてはまる一般的な概念になってしまうしかないからです。)
 意識とは「この私の意識」のことです。「事例がその一つしかないのだから、一般的なものではなくて、その唯一の事例は、私のそれであって、私のそれでしかありえない」。だから、「本当は『これ』としか言えない」と永井さんはいいます。
 では、そういう意味での意識、つまり永井さんの「これ」は実在するのかというと、それが「実在する」といえるのは永井さんだけで、でも、永井さんがそういったとたん、「そうだ、その通り。そういう意味の意識だったら実在する。どこにって? ほら、ここにあるこの『これ』が」と、きっと誰かが(たとえばあなたやこの私が)応答するでしょう。
 そうすると、永井さんか永井さんに応答した人の少なくともどちらかが間違っているのでないかぎり、事例がたった一つしかないはずの意識が複数あることになります。これはもう「一般的な意識」ですよね。だから、「実在する」と言葉にし、それが他人に理解されたとたんにそれは「実在しない」ことになる。つまり、永井さんと永井さんに応答した人のどちらもが正しいとしたら(ある意味では、つまり意識という言葉の一般的な定義からいえば、それは正しいに決まっている)、その正しさゆえに、二人とも間違っている(二人ともゾンビである)ことになるんです。
 こんなことをいうと、きっと、「それでも、私は在る」と、ガリレオが生きていた頃の哲学書みたいなことをいいたくなる人がでてきます。そうすると、その人が「私の意識は実在する」と言葉にし、それが他人に理解されたとたんにそれは「実在しない」ことになる、ということが繰り返されるわけです。
 ここに出てきた「実在する」と「実在しない」の対立は、さっきの「存在」と「実在」の対立よりもっとずっと根の深いものです。だから、同じ「なぜ意識は実在しないのか」という問いでも、それを問う状況の違いに応じて意味が異なってきます。(「今」や「ここ」や「この」や「現実」や「私」や「存在」の意味も含めて。)
 そういうわけで、永井さんは、初日の講義「なぜ意識は哲学の問題なのか」の最後にこう語っています。「意識とは、言語が初発に裏切るこのものの名であり、にもかかわらず同時に、別の意味では、まさにその裏切りによって作られる当のものの名でもあるのです。どうか、この言い回しを、気障なレトリックだと思わないでください。ここに問題のすべてがあるのです。」
 で、第2日目「なぜわれわれはゾンビなのか」(これもまた奇妙な問いかけです)、第3日目「なぜ意識は志向的なのか」と講義はつづき、最後の最後の質疑応答で、「この講義が言おうとしていることも、やはり「言えない」ということにはなりませんか?」「それはおそらく正しい解釈だろうと思います」というやりとりで終わります。
 以上のことは、この本に書かれていることの「要約」などではありません。この本は「台本」のようなものだと永井さんは「はじめに」に書いています。そうだとしたら、台本は実演されるためにあるものなのですから、できれば声にだして最初から最後まで読むことでしか、この本を理解することはできません。
 そして、この本を理解するということは、永井さんが本文で使った言い回しでは「言葉よりも手前にある」ことを言葉で理解するということなのですから、結局、何をどう理解したのかは「言えない」ことになります。