2006-08-01から1ヶ月間の記事一覧

休日の読書事情──『数学的にありえない』ほか

金曜の夜、ひさしぶりの衝動買いでアダム・ファウアー『数学的にありえない』上下(矢口誠訳,文藝春秋)を購入し、これも随分ひさしぶりの一気読みで土曜一日をしっかりと棒にふった。 「徹夜必至の超高速超絶サスペンス!」とか「ここに前代未聞のアイデア…

極西と極東の相聞歌──鎌田東二『霊的人間』(2)

《本書でわたしは、能で言う「諸国一見の僧」のように、各所・各人を訪ね、その場と人の声音を聴き取り、その奏でる言葉によるたましいの鎮まりと賦活を試みようとした。観阿弥や世阿弥や元雅が編み出した新しい身魂[みたま]の作法とは異なる、地霊の呼び…

マテリアルとスピリチュアリティ──鎌田東二『霊的人間』(1)

郡司ペギオ−幸夫は『生きていることの科学──生命・意識のマテリアル』で、「痛み」は「傷み」であると書いている。 郡司氏の精密な議論を荒々しく要約してしまうと、次のようになる。 痛みは「プログラム」(わたしというシステム)によって計算される「デー…

目を開いたまま夢を見る場所──加藤幹郎『映画館と観客の文化史』

「本書は日本語で書かれた初めての包括的な映画館(観客)論となる」(292頁)。著者はあとがきにそう書いている。 それでは、なぜこのような書物が書かれなければならなかったのか。 「映画はそれ自体としては存在しえない」(27頁)からである。「理論的予…

『記憶と生』(第4回)

週に一度、時間にしてほぼ1時間程度、ベルクソンの『記憶と生』を熟読する。 二ヶ月あまりの中断を経て、その習慣が甦ってきた。 レヴィ=ストロースの『神話論理』とヒッチコック/トリュフォーの『定本 映画術』を夜ごと眺めては、ベルクソンの読書体験へ…

「耳と心」でたどる日本宗教芸能史──山折哲雄『「歌」の精神史』

「歌」とは身もだえする語りである。 「ひとり」をめぐる感受性と情調の千年におよぶ歴史のうちに育まれた伝統的な「叙情という名の魂のリズム」(41頁)である。 「ひとり」とは外来語としての「個」に対応するひびきをもつ大和言葉で(121-122頁)、「魂鎮…

考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(7)

そろそろ「決着」をつけておこう。 日々だらしなく書物を読み齧り読み流すなかで、内田樹の『私家版・ユダヤ文化論』だけは例外的にふやけきった私の脳髄に刺激を与えてくれた。 そこからこの「連載」は始まったのだが、肝心の『私家版・ユダヤ文化論』から…

考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(6)

前回、郡司−ペギオ−幸夫著『生きていることの科学』に登場する「マテリアル」の概念に関して、その同義語として「物自体」という(カント由来の)語彙を使った。 郡司氏自身も「モノそれ自体」という言い方で、単なる素材性を超えたマテリアルの特質を説明し…

考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(5)

余談をもう一つ。 郡司−ペギオ−幸夫著『生きていることの科学──生命・意識のマテリアル』(講談社現代新書)を読んでいて、原理的(というより理路的)には『私家版・ユダヤ文化論』と同じ事柄が論じられているのではないかと思った。 私のいつもの悪い癖で…

考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(4)

余談を一つ。 内田樹・養老孟司の対談「ユダヤ人、言葉の定義、日本人をめぐって」(後編)が掲載された『考える人』(2006年夏号)は、「戦後日本の「考える人」100人100冊」を特集している。 そこに大森荘蔵の『新視角新論』がとりあげられていた。 …

考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(3)

内田流ユダヤ文化論の養老流唯脳論による読解その二は、「始原の遅れ」(意識のズレ)を視角と聴覚のズレに置き換えること。 対談から該当部分を抜き書きする。 養老「視角というのは、時間を表現するするものを捉えられません。写真を考えたら、そこに時間…

考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(2)

実は『私家版・ユダヤ文化論』が刊行される前に、著者と養老孟司の対談を読んでいた。 季刊誌『考える人』(2006年夏号)に掲載された「ユダヤ人、言葉の定義、日本人をめぐって」の後編。 内田流ユダヤ文化論を養老氏が「唯脳論」にひきつけて読解していく…

考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(1)

前回(7月29日)の「最近の読書事情」で、日々だらしなく読み齧り読み流すばかりで定着するものがなにもないと書いた。 それは厳然たる真実なのだが(ほとんど下痢状態なのだが)、そうしたなかでも若干の例外はある。 内田樹著『私家版・ユダヤ文化論』は…