考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(2)

実は『私家版・ユダヤ文化論』が刊行される前に、著者と養老孟司の対談を読んでいた。
季刊誌『考える人』(2006年夏号)に掲載された「ユダヤ人、言葉の定義、日本人をめぐって」の後編。
内田流ユダヤ文化論を養老氏が「唯脳論」にひきつけて読解していく理路が面白かった。


余談だが、この「理路」というのは「理説」や「理法」や「行程」などと並ぶ内田語の一つで、私が見るかぎり、内田樹養老孟司現代日本における「理路の人」の双璧である。
理路とは文字通り「理」が流れゆく「路」のことであって、理が流れるのは理法(自然の摂理)のしからしむることである。
たとえそれが無意識的なものであれ、人間の欲望などによって歪曲される筋合いのものではない。
あるいは、人間個人もしくは社会集団の意識、無意識の欲望によって動かされゆくこと自体が一つの理法であるとするならば、理路は人間の計らいによってどうこうできるものではない、と言うのが正確かもしれない。
そのような理路をたどることによって言語化されたものが理説、その理説が現実社会においてある効果をもたらしていく道筋が行程。
以上は、私の勝手な定義であって、内田氏がそう語っているわけではない。
ここで言っておきたかったのは、内田流ユダヤ文化論を養老流脳科学にひきつけて論じることは、いま定義した意味での「理路」にもとづくものであって、決して養老孟司の恣意的な理解(理屈)なのではないということだ。
(なぜおまえにそれが判るのかと詰問されても、いや、それもまた理路だからとしか答えようがない。誰も詰問しないか。)


前置きが長くなった。
養老流の読解その一は、レヴィナスの「始原の遅れ」をベンジャミン・リベットの実験にひきつけて理解していること。
端的に言ってしまうと、「ユダヤ人とは意識のことだ」と養老孟司は読解しているのである。
以下、詳細は省いて、個人的な覚え書きに徹して書いておく。
まず、内田樹レヴィナス(の理説?)に依って、「ユダヤ人」の本質を「そのつど遅れてその場に登場するもの、常に他人に先手を打たれているもの」(すでに始まっているゲームに、ルールを教えられないままに投じられている存在者)と定義する。
そして、言語活動はまさに「世界に遅れて到来するもの」(どんな過激な思考も法外な感情も、日本語その他のすでにそこに与えられた言語システムの枠組みの中でやりくりすることでしか表現できない)の典型であって、そういう「遅れ」に自覚的な人にこそイノベーティヴなことはできる。
ユダヤ人はそういった「知的習慣」を持つ集団だ。
このあたりのことを、『私家版・ユダヤ文化論』から(少し余分に、切れ端も含めて)拾っておく。


◎「ラカンの言うとおり、「ユダヤ人と非ユダヤ人」という対立は現実的な世界から導き出されたものではない。そうではなくて、「ユダヤ人と非ユダヤ人」という対立の方が「現実の世界に骨組みと軸と構造を与え、現実の世界を組織化し、人間にとって現実を存在させ」たのである。」(55頁)
◎「私たちはユダヤ人という語がすでにある種のコノタシオンを帯びて流通している世界に、遅れて到着した。そうである限り、私たちはもう「ユダヤ人という概念がまだ存在しない世界」にいる自分、その自分が見ている風景を想像することができない。その事実の取り返しのつかなさをもう少し真剣に受け止めてみたいと私は思っている。/私のこの次の問はだからこんなふうに定式化される。/「ユダヤ人という概念がまだ存在しない世界」から「ユダヤ人がいる世界」への「命がけの跳躍」がなされたとき、世界は何を手に入れたのか?」(56頁)
◎「ユダヤ人たちが民族的な規模で開発することに成功したのは、「自分が現在用いている判断枠組みそのものを懐疑する力と『私はついに私でしかない』という自己緊縛性を不快に感じる感受性」である。(略)イノベーションとは、要するに「そういうこと」ができる人がなしとげるものだ。」(178頁)
◎「ユダヤ人が例外的に知性的なのではなく、ユダヤにおいて標準的な思考傾向をわたしたちは因習的に「知性的」と呼んでいる」という「驚くべき」思弁的仮説(182頁)
◎「ユダヤ人はこの「世界」や「歴史」の中で構築されたものではない。むしろ、私たちが「世界」とか「歴史」とか呼んでいるものこそがユダヤ人とのかかわりを通じて構築されたものではないか」という「めまいのするような仮説」(199頁)


対談で、養老孟司は次のように語っている。
「ぼくは最初に、ユダヤ人論の中の「始原の遅れ」の部分を読んで、意味がよくわかりませんでした。それが、「あれれ」と気づいたのは、その意識の部分だったんです。意識自身が、「遅れている」と自らの遅れについて認識ができるということに気づいたんです。/ユダヤ人は、よくものを考える人たちです。つまり、意識という機能を徹底的に使っている。「遅れ」さえも徹底して意識し、それが知性につながっているんです。」
要するに、ユダヤ人とは意識のことである。養老孟司はそう言っている。
ためしに、先の『私家版・ユダヤ文化論』からの抜き書きに出てくる「ユダヤ人」を「意識」に(「非ユダヤ人」は「無意識」に?)置き換えて読んでみるといい。
筋の通った論述になる。それこそ理路にかなっている。
正確に書くと、ユダヤ人とは自分が意識であることを自覚(意識)している意識である、養老孟司はそう規定している。
自分(意識的活動)は脳の産物だということ、そして自分は脳の実際の活動に対して0.5秒遅れて意識化され言語化される(「後知恵」であり「後だしジャンケン」である)ということを自覚している意識。
「考える人」すなわち「理路の人」は、そういう「意識」を備えている。
「自分が現在用いている判断枠組みそのものを懐疑する力と『私はついに私でしかない』という自己緊縛性を不快に感じる感受性」を持っている。
そこに「時間」と「主体」(と「神」)の問題がからんでくる。
話は次の次元に進む。