考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(3)

内田流ユダヤ文化論の養老流唯脳論による読解その二は、「始原の遅れ」(意識のズレ)を視角と聴覚のズレに置き換えること。
対談から該当部分を抜き書きする。


養老「視角というのは、時間を表現するするものを捉えられません。写真を考えたら、そこに時間はない。逆に、聴覚は、時間はとらえられても空間はとらえられない。その視角と聴覚を統一するのが、意識の働きだろうと考えました。視角と聴覚のズレを埋めるために、時空という概念を発生せざるをえないのです。自分自身のズレを埋めるために、時空という新しい概念をつくるしかない。自然科学出身のぼくはそこから考えました。」
内田「視角と聴覚の問題こそ、まさにユダヤ教思想の核心なんですよ。」


以下、ユダヤ教の偶像(造形芸術)禁止の話と、その反面においてユダヤ教では信仰の表現は音楽(時間の芸術)に向かったこと、空間的表象形式は「無時間モデル」であって、そこには「遅れ」が発生する余地はないし、時間(神と人間を隔てる絶対的な時間差)のないところには真の宗教性が生まれてこない、云々の議論が続く。


養老「あれ? そうしたら、ユダヤ教徒の中で、目が見えない人はどういう位置づけになるんでしょうか」
内田「うーん、これは困った」
養老「これは、死ぬまでにはとても片付かない問題ですね。だけど、こういう死ぬ前に片付かない問題を抱えることが大切なのだと思いますよ。」


ここから先、一見脱線しているように見えてその実「ユダヤ的知性(というか知性そのもの)の聴覚=時間的本質」にかかわる話が続き、養老孟司による内田樹の(ユダヤ文化論にとどまらず内田樹の思想そのもののあり方、いや内田樹という意識の成り立ちそのものの)読解へと移行する。
それは、レヴィナスと武道をめぐる共通の「マトリクス」にかかわるものだ。
以下、まるごと発言を引用する。


養老「普通だったら、レヴィナスは「理屈」を言っているとしか思えないのだけど、武道を体得していく過程で、レヴィナスは「理屈」ではなく「本音」を言っていると気づいた。レヴィナスの言葉が身体の血肉となっていくことをどこかで悟られたのではないですか?
 逆に、それは言葉の持つ恐ろしいほどの力を理解したともいえますね。レヴィナスを本の中で読んで、論理的な「理屈」としてとらえるのではなく、身体で感覚としてとらえられるようになると、瞬時に言葉がすべてを変えてしまうということがわかってくる。それほどの影響力を持つものだということがわかる。
 近代人は無意識のうちに、言語というものは、「理屈」であって、いつでも論理的な意味を持つと誤解しています。でも、言葉は相手の脳に訴えかけるもっと強い力を持っている。言葉は「直達」する力を持っている。」
内田「そうかー。ぼくはレヴィナスと武道をそうやって両立させていたのか(笑)。」


以下、話題は「その人それぞれの「現実」(自分が現在用いている判断枠組み)が脳の中にはある」ことへと転じ、二人の理路の人による対談(自問自答)が完結する。
実のところ、私はこの対談録に『私家版・ユダヤ文化論』より以上の刺激を受け、知的興奮を味わった。
その刺激、興奮の実質をいまここに簡潔明瞭に括ることはできない。
それはあくまで「理路」をたどることで得られたものなのであって、無時間的な「理屈」がもたらした刺激や興奮ではないからだ。