考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(4)

余談を一つ。
内田樹養老孟司の対談「ユダヤ人、言葉の定義、日本人をめぐって」(後編)が掲載された『考える人』(2006年夏号)は、「戦後日本の「考える人」100人100冊」を特集している。
そこに大森荘蔵の『新視角新論』がとりあげられていた。
選者・評者は養老孟司である。
私はうっかり、唯脳論者と無脳論者は永遠に相容れない宿敵であると勘違いしていたので、ちょっとした驚きだった。
養老孟司はこう書いている。
哲学の本を読んで衝撃を受けることは少ない。なぜなら、たいていは「もっともなこと」を述べているからだ。
しかし、大森さんは違う。とんでもないことをいう。
科学哲学会で「無脳論」対「唯脳論」という対談をさせていただいた。議論の中身なんて、どうでもよかった。
対談させていただくことで、私は大森さんに敬意を表したかった。


「亡くなられる前に、おそらく最後の対談をさせていただいた。そのとき、「先生の作品を読んで、私は禅の十牛図を想起しました」と申し上げた。「そう思ってもらえば幸いです」と大森さんはいわれた。まさに禅問答というしかない。でもそれでいいのだと思う。哲学を理屈だと思うのは、西欧哲学に毒されているだけのことではないか。」


哲学は理屈ではないというときの「理屈」は、前回とりあげた養老孟司の発言に出てくるそれと同義である。
つまり、身体で感覚としてとらえられるもの、相手の脳に「直達」する恐ろしいほどの力を持った言葉。
それを内田樹のキーワードでいいかえれば「理路」もしくは「理説」ということになる。
ユダヤ式知性、端的に知性といいかえてもいい。
さらにそれを「意識」といいかえてもいい、というのが先の対談での養老説。
ただし、それは内田樹いわく「自分が判断するときに依拠している判断枠組みそのものを懐疑すること、自分がつねに自己同一的に自分であるという自同律に不快を感知すること」という「民族誌的奇習」を自らの「標準的な知的習慣」に登録した意識のことである(『私家版・ユダヤ文化論』180-181頁)。
こううやって書いていると、つくづく大森荘蔵という哲学者の「ユダヤ性」が際だってくる。
もう一人の理路の人。