養老孟司のロジック

正月明けに関連本を読んで以来、すっかり養老節にはまってしまった。
最新刊の『無思想の発見』(ちくま新書)はまだ冒頭の二章を読んだだけだが、茂木健一郎さんいうところの「独特の、ひんやりと肝に響くロジックの痛快さ」(『脳の中の人生』)が存分に発揮されていて、一字一句おろそかにできない。
気楽に読み流すこともできないわけではないし、本の造りはむしろそうされることを前提にしているようだが、しかしそれだと床屋談義に終わってしまう。


たとえば靖国問題について、養老孟司はこう論じる(23-24頁)。

首相が靖国に参拝すると、ジャーナリストが「公人としてか、私人としてか」と問う。
私が首相だったら「個人です」と答えるであろう。
「俺個人が靖国に参拝しようが、オウムに入ろうが、それは俺の勝手だろうが」ということを憲法は許しているはずなのである。
ところが、そんなことを考えたこともない人が多い。
あろうことか、公のために都合が悪いから、首相は参拝を我慢せよという論評まで出る。
公のために都合がよかろうが悪かろうが、個人の思想・信教の自由を妨げてはいけない。
公が困るというなら、むしろますます個人としての参拝を禁じてはいけない。
それでなきゃ、信教の自由なんて憲法の規定は、そもそも不要ではないか。


この「ロジック」はまったく正しい。
最近の首相発言は、もしかするとこの論に立っているのかもしれない。
あなた個人としてはそれでいいとしても、あなたの振る舞いを中国や韓国の国民はどう思うか。
一国を預かる政治家としては戦略性もしくは政治的・外交的センスがなさすぎる。
あまりに軽率ではないか。
この批判は「あなた個人としてはそれでいい」と言ったとたんに無効である。
問題は「個人」だからである。
憲法問題としてはそれで終わりである。
(しかし日本国憲法は「天皇」という例外を認めている。
天皇に思想・信教の自由が認められるかどうかよく知らないが、少なくとも参政権は認められない。
また、皇室典範第10条には「立后及び皇族男子の婚姻は、皇室会議の議を経ることを要する」とある。
婚姻の自由が認められない皇族男子がはたして「個人」といえるか。)

養老孟司の議論は、実は「日本の世間における、私というものの最小の「公的」単位、それは個人ではなく、「家」だった。日本の世間は「家という公的な私的単位」が集まって構成されていた」(22頁)という「結論」の応用問題としてなされている。
だから、靖国問題をめぐる養老孟司のロジックは二枚腰なのである。
養老さん、あなたは小泉首相靖国参拝を認めるんですか。
あなたは昔の家族制度に戻るべきだとおっしゃるんですか。
そんな質問から始まる議論を床屋談義という。
そこには結論はあってもロジックはない。


     ※
昨年から継続的に『日本人の身体観』(日経ビジネス人文庫)を読み進めている。
今日も「仏教における身体思想」と「中世の身心」の二つの論考を収めた第Ⅳ章「中世の身体観」を読み返した。
何度読んでも面白い。
歌と神(仏)、歌論・連歌論と日本仏教思想という、このところ強烈に惹かれているテーマにストレートにかかわってくる。
それとは別に、今回読み返して、養老孟司の「ひんやりと肝に響くロジックの痛快さ」の由来に思いあたった。


「仏教における身体思想」に、抽象思考と実証思考の対になる語がでてくる。
これは以前にも引いた文章だが、大事なところなのでもう一度引用する。

要は、わが国にも西欧にも、同じように抽象思考があり、その思考の形式に従って、「解毒剤としての実証思考」が成立するのではないか。もしそうだとすれば、わが国の実証思考を知るためには、わが国の抽象を支配する思考すなわち仏教を知らなければならない。ところが、面白いことに、仏教という抽象思考については、書かれたものがたくさんあるのだが、実証思考の方は、この国では「思想」として表明されない傾向があることが注意される。(『日本人の身体観』231頁)

最後のあたりが『無思想の発見』につながっている。
それはともかく、この表明されない実証思考に対する抽象思考が「ロジック」にかかわる。
つまり、養老孟司のロジックとは抽象思考の徹底なのである。
日本国憲法は「個人」を「公的な私的単位」と規定した。
公権力に枠を嵌め、公が私に干渉してはならない範囲を人権として定めたのである。
だから首相が「個人として」靖国に参拝することは憲法が認めている。
養老孟司はそう書いていないが、憲法の原理を徹底するなら、天皇家という存在は認められないだろう。)
小泉首相がそう考えているかどうかは知らないが、靖国参拝を批判するなら、まずこの憲法原理をどう考えるか。
「あなたは小泉首相靖国参拝を認めるんですか」。
そう問うあなた自身はどう考えているのか。
憲法原理としての「個人」を認めないというのか。
養老孟司はそう書いていないが、そんなことは時と場合による、では原理の名に値しない。)
それでは、それに代わる原理を示されたい。
改憲をいうなら、第九条ではなく、根本は民法に関わる部分であろう。
「あなたは昔の家族制度に戻るべきだとおっしゃるんですか」。
そんなところに戻れなんて思っていない。
こちらはまもなく死んでいく身だ。
皆さんどうお考えですかと、こんどはこちらが訊く番だ。
天皇家も、お茶の表千家裏千家も、その他の宗家も、相変わらず続いている。
小泉首相は政治家として三代目である。
「それをどう思っているのだろうか。最後は再びその辺に落ち着いたとしても、なにか具合の悪いことでもありますかね」(『無思想の発見』32頁)。


これだけではない。
養老孟司のロジックの凄みは、抽象思考がもつ凄みでもある。
レトリックとロジックを腑分けするのが面倒なので、そのあたりの経緯がよく示されている箇所をまるごと引用しておく。

 大家族の家単位だった私的空間が、憲法上つまりタテマエ上は、個人という実質的最小単位まで小さくなってしまったのが、戦後という時代である。そうなると、実質とタテマエをなんとか工夫してすり合わせるのが日本人だから、どうなったかというなら、「大きい」家族を、「小さい」個人のほうにできるだけ寄せるしか手がない。その折り合い点が「核家族」になったんでしょうが。
「ひとりでに核家族になったんだろ」
 たいていの人はそう思っているはずである。冗談じゃない。そんな変化が「ひとりで」に起こるものか。「ひとりでに」というのは、
「俺のせいじゃない」
と皆が思っているというだけのことである。だって憲法のせいなんだから。(『無思想の発見』29頁)


     ※
養老孟司の文章は一字一句おろそかにできない。
慎重にロジックを腑分けしながら読み進めないと、結論を見失う。
というより、性急に結論を求める床屋談義に陥ってしまう。
言われていることはしごく簡単なことであるはずなのに、腑に落ちさせるのに難儀する。
そこに「思想」を読み込もうとしても、しかと掴めない。
養老孟司の思想」と呼ぶべき実質は、たぶんない。
そこにあるのは、ロジックと実在感だけだろう。
あるいは、抽象思考と実証思考が切り結ぶ「表現としての思想」の解剖学。

今日、『日本人の身体観』と同時期に雑誌連載された『身体の文学史』(新潮文庫)を入手した。
かつて読んだ養老本のなかでも『唯脳論』と並んでもっとも刺激を受けた本。
『無思想の発見』とあわせて、当分はこの三冊を熟読玩味してみよう。
養老節に浸りきることでしか、そこから抜け出すことはできそうにない。