今年最初に読んだ本──『解剖学教室へようこそ』

年末から年始にかけていくつかの雑誌、本を手にしたが、最後まで読み終えたのは二冊だけ。
その1.養老孟司『解剖学教室へようこそ』(ちくま文庫)。


養老人間科学の原点。自然(人体)と学問(科学的思考)と歴史(解剖史)をめぐって、平易簡明な物言いだが、実は理解=体得するには難解な養老節が炸裂する。
人は何のために解剖するのか。
人体を言葉にするためである。
切れないもの(自然)を切るためである。
自然を言葉でできた世界におきかえること。それが学問である。
アルファベットを使う民族にとって、世界は階層でできている。
単語の下につねに一つ下の階層(アルファベット)を見るからである。
人体も階層でできている。その単位(アルファベット)は細胞である。
細胞は細胞からつくられる(自己複製)。細胞はウチとソトを区切る。細胞は運動し、死ぬ。
この三つの性質をもつことによって、細胞は生物の基本単位である。
ここに、「情報」と「システム」の養老人間科学が胚胎する。


養老人間科学の「方法」を仏教思想の語彙に翻訳し、その視線に「死せるキリスト」のマンテーニャのそれと同質のものを見てとった南直哉(みなみ・じきさい)氏の解説が見事。

…人は理解した「事実」だけを語る。理解しなかったことは語れない。当たり前である。その「理解したこと」を「事実そのもの」だと思い込む態度を、仏教では「妄想分別[もうぞうふんべつ]」と言い、「無明[むみょう]」と言う。


…自分が事実そのものを見ることはできなくとも、どのように事実を見ているかを可能な限り明確に書くことで、先生はその先の事実の在り処を示そうとする。
 その事実を、先生は「自然」と言い、それは「切れていない」と言う。この簡単な物言いは恐ろしい。仏教が「如実知見[にょじつちけん](ありのままに見ること)」と称して見ようとしたのは、このことだ。


先生は本書の最後で、例によって簡潔明瞭に言う、「心は、からだがあって、初めて成り立つのである」。この「事実」を仏教は、「諸行無常」と言う。