2007-09-01から1ヶ月間の記事一覧

【大森荘蔵】ことだま論・第1節

大森荘蔵の「ことだま論」は二つの節からなっている。 第1節「無‐意味論」では、野矢茂樹さんが著作集第四巻解説で再整理した「私(主観)が‐その赤い本(対象)を‐私の目に映った見え姿(現象)において‐見る(作用)」という(さしあたっては知覚の現場に…

【大森荘蔵】立ち現われとしての哥

大森荘蔵の「ことだま論──言葉と「もの‐ごと」」(『物と心』所収)を読んだ。 2年前にも、桑子敏雄さんが『感性の哲学』で「大森哲学の白眉」と書かれていたのに触発されて読んだことがある。今回は著作集第四巻のゆったり組まれた活字で読んだ(巻末に収…

【哲学の問題】包み込むものと包み込まれるもの

前田隆司著『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?──ロボティクス研究者が見た脳と心の思想史』(技術評論社,2007)の第5章「哲学者との対話」を読んだ。「現象一元論」の哲学者・斎藤慶典との対話(「現象学」)、「ギブソニアン」の哲学者・河野哲也…

【哥の勉強】推移を経験すること/言葉の舞踏としての哥

8月29日の日記に、尼ヶ崎彬氏の「和歌を味わうとは、言葉の舞踏に引き込まれ、一足ごとに変容するイメージの旅を歩むことである」という指摘を引用した。『縁の美学』のあとがきに出てくる言葉だが、この本の冒頭に収録された論考「枠と縁──詩歌の文法」か…

【哥の勉強】万葉の心・新古今の心

8月24日の日記に、うろ覚えで、「万葉の歌人は、心を客観的にとらえ、それがあるかないかを問題にした。別離の哀しみが自分の内に生成し、いつまでもそこに留まっているのを、当の自分が自覚しているといった具合だ。ところが、古今集になると、そうした物…

【哥の勉強】哥と共感覚(色と触覚)

前回、レヴィ=ストロースの『みる きく よむ』に収められた「音と色」のことにふれた。 この話題に関連するのが、前々回の「拾い書き」で書き漏らした、大岡信著『日本語の世界11 詩の日本語』(中央公論社,1980)の第三章「反俗主義と「色離れ」──内触覚…

【哥の勉強】哥と共感覚(続)

川田順造著『コトバ・言葉・ことば──文字と日本語を考える』(青土社,2004)に、和歌の枕詞は元来、振りを伴っていたのではないかという西郷信綱の説が紹介されていた。(出典は記されていない。興味深いので、そのうち調べておこう。) この話は、『コトバ…

【哥の勉強】哥と共感覚(拾い書き)

◎歌を聴くとは、時間経験を味わうことである 《この歌[足曳きの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜を独りかも寝ん]の聞き手にとって、言葉の意味は素直に流れない。無意味な音[枕詞:足曳きの]に始まり、突然意味が中断し[山⇒山鳥⇒尾]、新たな話題[独り寝…