【哥の勉強】哥と共感覚(色と触覚)

 前回、レヴィ=ストロースの『みる きく よむ』に収められた「音と色」のことにふれた。
 この話題に関連するのが、前々回の「拾い書き」で書き漏らした、大岡信著『日本語の世界11 詩の日本語』(中央公論社,1980)の第三章「反俗主義と「色離れ」──内触覚重視が語るもの」だ。
 以下、関連する箇所を、第二章「日本詩歌の「変化」好み──移ろう「色」が語るもの」からのものを含めて、多少変形を加えて抜き書きしておく。


◎「いろ」あるいは「色」という言葉、また実体は、古代の人々にとっては、不思議にも常に、変化と移ろいの観念をよび起こすものだった。
大和言葉の「いろ」(もとは色彩、顔色の意。転じて好色的な意味。また色彩の意から心の様子。別に仏教語「色」(しき=形相)の翻訳語)と中国の文字である「色」(ひざまずいている人の上にもう一人の人間が乗っている会意文字。性交の状態そのものの意)とでは、起源において必ずしも同一とはいえない。(以上、第二章から)


◎蕉門の森川許六の「百花譜」に「桃は、元来いやしき木ぶりにして、梅桜の物好[ものずき]、風流なる気色も見えず」云々とある。「桜の淡紅と桃の淡紅と、言葉にすれば同じであっても、明らかに異質である。そこには触覚的な弁別意識がおおいに働く余地があって、その見地からすると、桃はなんといってもぼってりした下ぶくれの艶女であり、桜がたとえ八重桜であっても示す、肉のしまった、いわば着痩せのする女の感じとは対照的なのである。」(37p)


◎「私は日本の詩歌における「色のあらわれ」をあれこれ考えているうちに、日本人は「色」を純粋視覚の見地から感じとるということがあまりなく、むしろ、触覚的、さらには内触覚的な見地からこれをとらえるということに、本能的に習熟してきたのではなかろうかという思いをおさえることができなくなった。」(37-38p)


◎うすむらさき、という代わりに、藤袴や萩や葛を直接に名指す。黄という代わりに、山吹を言い、女郎花を言い、菊を言う。このように、日本の詩歌では「色」の代わりに「もの」を直接さし示す。「つまり、それらは、個々の自然物の物質感とともにしか考えられない色なのである。それらは「色彩」として抽象されず、個体のもつ地色として理解されている。だから、日本語に古来色彩をあらわす形容詞がきわめて乏しく、白い、黒い、および赤い、青いしかなく、黄色いという、いわば変則的な形容詞が遅れてやっと登場したということも、当然だったということになる。」(38-39p)


◎「臙脂[えんじ]・朽葉[くちば]・青磁・浅葱[あさぎ]・朱鷺[とき]・鶯[うぐいす]・くちなし・錆朱その他その他、日本にはじつに豊かな、ほとんどその豊かさに茫然とするほどの色名がある。しかし、それはある意味で当然だったのだ。自然界のある事物が見いだされることは、その事物固有の色が見いだされることであった。色名の数は、事物の数と同じだけあるといってもいいのである。これはいったい、認識における恐るべき精密さを示すものだろうか、それとも逆に、恐るべき怠慢を示すものだろうか。自然の事物のひとつひとつに、まことにそれに相応しい名前を与え、その名前を同時にそのものの色名ともするということは、少なくともきわめて鋭敏な感性的精緻と洗練を必要とする。そういう意味でいえば、日本人の感性的認識の精密さこそ讃えられねばならないだろう。しかし反面、個々の色の微妙なニュアンスの差異を超えて、色環的な認識を形づくるために抽象の努力をするということが、絶えて行なわれなかったということは、日本人の認識能力にある種の本性的な欠落があることを示すものかもしれないと思われる。
 そこには、古代以来久しく、「光」というものと「色」の関係をあまり明確に意識することのなかった(と私には思われる)日本人のものの見方の、ひとつの結果があるのかもしれない。少なくとも、『万葉集』から『新古今集』あたりまでの詩歌は、色を光と関連させて動的にあるいは印象派的にとらえているものは稀である。」(41p)


◎「私はこれ[光]が日本の詩歌人たちに、多く触覚的なとらえ方でとらえられていることを指摘したい。右の永福門院の歌[ま萩散る庭の秋かぜ身にしみて夕日の影ぞ壁に消えゆく]の「夕日の影」は、壁の表面で消えるのではなく、まぎれもなく壁の内側に沁みこんで消えるものとして歌われている。花園院の歌[むら雨のなかば晴れゆく雲霧に秋の日きよき松原の山]では、松原の山に照る秋の日が「きよき」といわれるとき、それはけっして視覚的なものとしてだけあるのではない。何よりもまず、冷え冷えと澄んでいる雨後の空気の触感によって、「秋の日きよき」という感覚は成立しているのである。
 そういうふうに言えるなら、この種の触覚的認識法はすでに『新古今』歌人たちの親しく浸っていた世界であったし、ずっとさかのぼって、『古今集』の歌人たちにも親しい世界だったことをも言わねばならない。」(42-43p)


◎『古今集』の撰者の一人、凡河内躬恒に「やみがくれ岩間を分[わけ]て行水[ゆくみづ]の声さへ花の香にぞしみける」という歌がある。
「こういう「しみる」感覚の系譜が、実は日本詩歌の歴史に一本のけざやかな線をつくっているのであって、/夕されば野べの秋風身にしみて鶉[うずら]なくなりふかくさの里 藤原俊成/という歌ではまだ純触覚的だった「身にしむ」は、俊成の息子の時代に至ると、/白砂のそでのわかれに露おちて身にしむ色の秋風ぞふく 藤原定家/と、「秋風」が「身にしむ色」をしているという内触覚的な認識にまで達する。念のためにいえば、定家のこの歌は、恋の歌なのである。同じ定家に、/消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの森の下露/のごとき歌もあって、「色」はもはや完全に「色離れ」しているといわねばならない。にもかかわらず、なぜか私は、これらの歌のなかに日本の詩歌の「色」を強く感じるのだ。言ってみれば、ここにこそ、自然界のものに密着した色の世界から、渾身の力をこめて抽出され、いわば「無色の原色」として意識された「色」があるとはいえないだろうか。
 風に色を見るということは、もはや視覚の問題ではない。心の眼の問題である。風のなかに色を見る「心」があるのだ。それはあらゆる現実の色彩の世界から遠ざかっているが、自然にそうなったわけではない。意志によって遠ざかっているのである。実生活においては、彩り豊かな服もあり、調度もあり、寺院の内装もあり、植物世界もあったわけだが、そういう現実世界の色を拒絶することによって、無職のもののなかに色を見る一種の透視的な眼を獲得しようとして、彼らは骨身をけずった。
 そうなるについては、色即是空を教える仏教思想の影響を見落とすわけにはいかず、たとえば俊成に、「法華経」の詞句にちなむ釈教歌、/高砂の尾上の桜みしことも思へばかなし色にめでける/のような歌があって、「色」の否定へのひとつの契機がどの辺にあったかを示している。しかしまた、同じ俊成の釈教歌で、勤行者が夜明けに見る極楽の黄金の岸を詠んだ歌、/暁至りて浪の声黄金[こがね]の岸によするほどに/いにしへの尾上の鐘に似たるかな岸うつ波のあかつきの声/には、色彩への言及は何もないのに、黄金の光、そして色が、感触として遍満しているのを感じることができるのである。」(44-46p)


◎「つまり、ここまでくると、日本の詩歌というものが、現実生活のなかのさまざまな事物を即座に色として感じとっていた物心一体の境から、しだいに個々の「事物の色」を離れ、「心の色」を積極的に定立していこうとする姿がはっきりしてくるといえるだろう。それは、『古今集』仮名序で、貫之が当代の人の心が華美に流れていることを慨嘆した[いまの世中、色につき、人のこゝろ、花になりけるにより、あだなるうた、はかなきことのみ、いでくれば、いろごのみのいへに、むもれぎの、人しれぬこととなりて…]とき、すでに芽生えていたものといえるし、後代の芭蕉のような詩人が、「風雅のまこと」をいうとき、その「まこと」は、やはりこれと別のものではなかったと思うのである。一言でいえば、ここに日本詩歌の反俗主義があり、一見華麗なもの優美なものを豊かにもっているとみえながら、日本の詩歌が全体として「ひえさびた」境地へとたえず磁針を合わせつづけてきた理由も、この反俗主義の現実的あらわれとしての禁欲主義によるだろう。許六が桃をいやしんだ理由も、その辺にあるように思われる。
 視覚的な「色」だけでは満足できず、触覚的に「しみる」色を追求しようとする衝動も、同じところに発しているだろう。」(46-47p)


◎「心敬は古人が歌のあるべき姿について語った言葉として、「水精(水晶)の物に瑠璃をもりたるやうに」という言葉をあげて賛意を表し、「これは寒く清かれとなり」と注している。触覚の原則はここにも貫かれている。(略)いずれ色あるものの世界にあって、いかに色を透脱するかということに、日本の詩歌は思いをこらし、反俗の「まこと」をそこにかけてきたといってよい。
 その場合、触覚的、また内触覚的な透視力ともいうべきものがそこでたえず鋭く働いていたという点に、いわば日本の詩歌そのものの「色」があったのであり、そこに日本詩歌独特の「象徴主義」がたえず働く機縁もあったのだといってよいであろう。」(47-48p)