【哥の勉強】万葉の心・新古今の心

 8月24日の日記に、うろ覚えで、「万葉の歌人は、心を客観的にとらえ、それがあるかないかを問題にした。別離の哀しみが自分の内に生成し、いつまでもそこに留まっているのを、当の自分が自覚しているといった具合だ。ところが、古今集になると、そうした物のごとき心ではなく、自分と外界、意識と自然といった区分が融解して区別がつかなくなった心がうたわれる。そこでは主客分離でいう「主」としての自己は消失している。心はそういう曖昧な「私」のうちに染みこみ、染めあげるものになっている」と書いた。
 出典は、相良亨『一語の辞典 こころ』(三省堂,1995)。気になったので、該当箇所にあたっておく。


◎万葉人の「心」

《今日のわれわれが『万葉集』の心のつかい方をみて、もうこのようなとらえ方はしないのではないかと、われわれとのずれを感じ、その特色らしきものを感ずることがある。具体的な事例をいくつかあげると、「結びし情[こころ]」が忘れられない、「語らひし心」に背いて貴方は去った、「忘れじと思ふ心」に終わることがあろうか、「遠き心」を私はもっていない、「異[け]しき心」を私は思わない等々である。事例はなおいくつでもあり、「長き心」(変わらない心)、「悔ゆべき心」(後悔なさるような心)、「染みにし心」(あなたに深く染みついた心)、「絶えむの心」(仲が絶えるようにしたいという心)、その他があげられる。ところで、これらのうちで一番印象的なのは、/大夫[ますらお]は友の騒ぎに慰もる心もあらめ われぞ苦しき/慰もる心は無しに斯くのみし、恋ひや渡らん月に日にけに/のような「慰もる心」もない、あるいは「慰もる心」がある、といった用法である。今日われわれが一般に、悲しさや淋しさが慰められないというところを、「慰もる心」がない、ととらえるのである。
 これは人間の内面の動きを、個別化し客体化して、その個々の心のあるなしという仕方でとらえるものである。ここには「凝る」を語源とする発想に、あるいはつながるところがあるかもしれないと思われる。
 万葉人は、このような心意識を軸にして生きていたと思われるが、なお、「語らひし心」(男女が契りあったこころ)に背かない・守る・変えない・移らない・忘れない等々と、その心が変わらないことをしばしば歌い、また、変わらないことを含めてその心を、より深い、しっかりしたものにしていくことを望ましいこととしていたといえよう。
 「まそ鏡磨[と]ぎし心をゆるしては後に言ふとも験[しるし]あらめや」という歌があるが、これを磨ぎみがいた鏡のような心というのである。貞操貞節に限られるのか、心一般についていわれるのか、いずれにしても鏡をとぐというきびしい自己規正をもって、心の姿勢の保持が語られていたといえよう。》(18-20頁)


◎景物と交感する心

《歌は、心に思うことを自然の景物に託して[古今集仮名序「見るもの聞くものに託して」]、その交感交流の中に生まれてくるものであった。心の思いを言葉で表現するということにおいて、心と詞との全一的緊張が求められ、そのことによって心の内面が襞を深めることになったと思われるが、心はまた景物との交流の中に、さらにより豊かな微妙な襞をもつことになったといえよう。自然との交感的関係は『万葉集』にもみられるが、先に述べたように、『万葉集』の歌には個々の心を対象化し客体化してとらえる傾向がなお顕著にうかがえた。だが『古今和歌集』には、『万葉集』にみたような心のとらえ方は目立った傾向としては存在しない。『古今和歌集』において、心は景物と交感交流する柔軟な主体としてまずあったように思われる。そして交感の中に歌うことが、思いとしての心の、より深い微妙な把握となったといえよう。
 ところで、たとえば、/世の中に絶えて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし(在原業平古今和歌集』一の53)/をみると、景物と交感する人の、ここでは落ち着きのない春の人の心が、「春の心」と表現されている。(略)春と人とは一つであり、心は人の心であるとともに交感する景物の心としてとらえられる。心がただ人の心であるのみでなく、景物の心ともなる。これは人の心の内なるものが、内向して焦点を結ぶというよりも、景物との交感の中に歌われることによって、より深くとらえられてくるということに関わるといえよう。》(23-25頁)


     ※
 8月24日の日記には、また、「ここに、古今和歌集新古今和歌集の違いをもちこむと面白くなる。大雑把にいうと、古今集の言葉が物(自然)と渾然一体だとすると、新古今では言葉の世界が物の世界から自律している。そこでは、「私」とは何か、という問題感覚が、万葉集の次元とは異なるところ(言語世界、もしくは物狂いの世界)で再び浮上する」と書いた。
 出典は、尼ヶ崎彬『花鳥の使』。これも、実地にあたって確認しておきたいが、この作業は、いずれ「哥とクオリア/ペルソナと哥」でやらなければいけないので、今日のところはパス。
 『一語の辞典 こころ』の「歌の心」の章がこのことと関連して示唆に富んでいたこと、それから、佐佐木幸綱万葉集の〈われ〉』(角川選書,2007)が、万葉集の心から古今集新古今集にまで及んで面白かったこと(一人称詩としての和歌、無人称詩としての定家の和歌、「現にいま発声しつつある者」としての〈われ〉、宮廷歌人・専門歌人、すなわち「署名入りの歌を作る者」としての〈われ〉、そして歌の読者としての〈われ〉、等々)についても、今日はパス。