【哥の勉強】推移を経験すること/言葉の舞踏としての哥

 8月29日の日記に、尼ヶ崎彬氏の「和歌を味わうとは、言葉の舞踏に引き込まれ、一足ごとに変容するイメージの旅を歩むことである」という指摘を引用した。『縁の美学』のあとがきに出てくる言葉だが、この本の冒頭に収録された論考「枠と縁──詩歌の文法」から、関連する文章を抜き書きしておく。


《和歌は三十一字という短詩型であるにもかかわらず、なぜか複数の素材を織り込むのが当然のこととされてきた。たとえば紀貫之古今集仮名序ではじめて和歌を定義したとき、「やまと歌」は心に思う事をさまざまな事象に付託して表現するものだとした。これは主意たる表現内容(個人的心情)と付託される事象(花鳥風月)と、少なくとも二つの素材を和歌は必要とするということである。複数の素材を文法を無視して組み合わせて、なお作品としての統一感を与える一つの方法は、言葉の体系を明確な図式の枠に嵌め込むことである。西洋や中国の韻律図式がそれである。だが日本人は漢詩の厳格な平行性の効果を知りながら、語と語の連想関係によって言葉を繋いでゆくことを選んだ。枕詞、歌枕、縁語、掛詞、本歌取などの修辞はみな、散り散りになろうとする言葉を何とか縁によって繋ぎとめようとする手段であるとも言えるだろう。
 詩の言葉を図式として見るとは、全体を一度に見渡して構造を把握することであり、一群の言葉を一つのゲシュタルトとして認知することである。これはいわば、作品を空間的構築物として捉える態度である。一方言葉の縁を発見するとは、常に語と語との関係という歌の細部の繋がりだけに注目するものである。全体は見えない。ABCという語の連鎖において、AB間、BC間に縁があれば、AC間に何の関係がなくとも、ABCはひとつながりであるとみなされる。それはAとCとを同時に見ないからである。言い換えれば、歌を読む(聞く)とは、ABCを同時に一覧することではなく、AからBへ、BからCへという推移を経験することなのである。この推移を滑らかに行わせるものが、言葉の縁に他ならない。ここにあるのは、時間の中で出没する作品の細部を順次経験しようとする態度である。
 言葉の縁は、継ぎ合わされた言葉に形式の上で連鎖の必然を与える。しかし内容の方は形式とは無関係に疾走し、断絶し、飛躍する。中世の優れた歌を詠むとき、形式上の滑らかさと内容の曲折とが大きなコントラストを成しているのを感ずる。そしてこの落差こそが言葉の舞踏に力を与えているのである。》(28-29頁)


 この論考で、尼ヶ崎氏は、詩歌を詩歌たらしめている形式条件(形式の自立のための意識的な言葉遣いの操作、すなわち修辞の原理)を二つに分類している。その一つは、「韻律図式や対句など、平行性によって語列が人工図式であることを目立たせるもの」。もう一つは、隠喩や換喩などの比喩表現を含めた「語の連想関係に基づく非文法的統辞」。尼ヶ崎氏は、前者を「枠」、後者を「縁」と名づけ、「どこの国の詩歌も両者を形式条件として持つとしても、日本の場合は比較的「枠」の条件が弱く、「縁」の条件が大きな役割を受け持ったと言えるだろう」と書いている(20頁)。
 ところで、読み手の注意を内容よりも形式(言い回し)に向かわせるための仕掛けのことを、ヤコブソンは「詩的機能」と呼び、「等価の原理を選択の軸から結合の軸へと投影すること」と定義した。尼ヶ崎氏は、これを「等価性という仕掛けを使って語列を組み立てる」こと、あるいは「類似の言葉の繰り返しによって文の中にある形式性を目立たせること」(4頁)と言い換える。
 等価には、音の等価と意味の等価の二面がある。音の等価には、母音子音の響きの同音(韻)と、強弱長短の配列のリズム(律)がある。意味の等価には、連想関係(同義語・反義語・換喩・提喩などをひっくるめて縁語)と、文法機能(品詞や格)がある。
 また、等価を利用した修辞形式に、反復と重層の二面があり、反復には、語の反復(同音の繰り返し、または縁語の連続)と構造の反復(脚韻、対句など)がある。重層とは、形式上明らかに二つの文であるべきものが重なり合うこと、つまり「二つの語列が同一の語句を共有している」ことであり、その仕掛けの一つは掛詞、もう一つは本歌取である(30-31頁)。


《西洋・中世の詩が主として構造の反復というやり方で言葉に形式の枠を嵌めているとしたら、和歌は語の反復と文の重層によって連鎖と展開をめざしている。読者が縁によって繋がっている語の連鎖を追えば、それは次々とイメージが変容し、突然に転回するという時間的経験をもたらすだろう。平行性の詩が構造堅固な建築であるとすれば、縁につられて流されてゆく和歌は予期せぬ変化を身上とする舞踏に近いかもしれない。》(31頁)


 尼ヶ崎氏は、この文章に続けて、「いや、もう少しましなたとえを捜そう」と書いている。「もう少しましなたとえ」というのは、幾何学式庭園に対する回遊式庭園なのだが、このことについては別の機会に書く。
 また、尼ヶ崎彬編『芸術としての身体──舞踏美学の前線』(勁草書房,1988年)の序論「舞踏美学の現在」とあとがき(いずれも尼ヶ崎氏によるもの)が、「言葉の舞踏としての哥」に関連してとても興味深いのだが、このこともまた別の機会に。