【哲学の問題】包み込むものと包み込まれるもの

 前田隆司著『脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?──ロボティクス研究者が見た脳と心の思想史』(技術評論社,2007)の第5章「哲学者との対話」を読んだ。「現象一元論」の哲学者・斎藤慶典との対話(「現象学」)、「ギブソニアン」の哲学者・河野哲也との対話(「生態学的心理学」)の2編が収められている。
 斎藤との対話が、というよりそこで斎藤が自己解説している「基づけ関係」の説(『心という場所』)が面白かった。


 前田本第4章の最後に「心の哲学」の節があって、そこで、チャーマーズ(『意識する心』)の「哲学的ゾンビ」の話題が取り上げられている。
 外見が人間にそっくりであるだけでなく、脳内のニューラルネットワークの発火分布の詳細に至るまで、物理的にも人間と全く同じであるにもかかわらず、実は現象的な意識を持たない存在を想像することができるか。私(前田)には到底想像できないが、チャーマーズはできるという。それは、意識の現象的な側面が、ニューラルネットワークから独立した霊魂のようなものだという主張に近い。つまり、心身二元論
 しかし、チャーマーズ流の二元論の視点から、「クオリアは幻想であって確固としたものとしては何ら存在しないという枠組みの中で、その幻想が受動的メカニズムによって作り出される」と考える私(前田)の一元論を論破することはできない。一元論と二元論は前提が異なる。「したがって、チャーマーズがいくら一元論の問題点を指摘しても、それでは、一元論自体が間違っている場合と、一元論の一部に未知の部分がある場合とを分離できないのである。」(199頁)
 ここのところに、斎藤が異議を申し立てる。
 第一に、チャーマーズが問題にしているのは、脳と意識との間にどういう関係があるのか、物と心をつなぐ「糸」がどのようになっているのかが全くわかっていない、ということだ。一元論が成り立つためには、脳と意識、物と心という二つものの間にきちんとした関係性が見出されている必要があり、かつその上で、心を物に還元できる十分な理由がなければならない。「現時点ではまだよくわかっていない」と認めたとたん、チャーマーズの意見に従わざるを得ない。
 第二に、仮に心から脳へとさかのぼるプロセスが明らかになったとしても、クオリアを伴った心の状態がなくなるわけではない。つまり、二元論的な状況がそのまま存続する。それを幻想として斥けるのなら、その十分な理由が示されなければいけない。
 第三に、そもそも心という存在(意識という過程)を抜きにして、脳という物的世界の代表的存在をそのようなものとして同定(アイデンティファイ)できるのか。脳と心を分ける議論の中に、すでに「心(が設定する特定の観点)による脳の同定」というものが不可欠の前提として入っているのではないか。つまり、一元論者の仮定は形而上学的であって、そもそも脳と心を二つに切り分けた上で対置するという発想自体に疑問がある。
 そこで、斎藤が提案するのが、脳と心の間には「基づけ」という固有の関係の仕方がある、というものだ。
 斎藤の「基づけ関係」は、二つの関係性からなる。「基づける項」と「基づけられる項」の二つの項があって、まず、「基づけられる項」は「基づける項」なしには成立せず、一方で、「基づける項」は「基づけられる項」なしにはそのようなものでありえない。具体的にいうと、心は脳なしには成立せず、一方で、脳が脳として存在するのは、心の中でしかない。


《よく誤解されているのですけれども、この基づけ関係というとらえ方から出てくる重要な帰結に、「『そもそも心なしにまず脳があって、その脳から心が出てきたのだ』と考えてはいけない」ということがあります。
 なぜならその考えは、「心」という、上に乗っかる新たな秩序(「基づけられる項」)が出来上がった後で、その「心」が描いたシナリオだからなんです。つまり心が「自分たちが成り立つにあたってはまず脳というものがあって、そこから自分たち心が出てきたんだ」というように、いわば自分たちの基盤を成すものをさかのぼって指定し解明する関係になっているんです。
 そしてこの「さかのぼり」は、心なしには決してありえないことなのです。
 この基づけ関係で非常に重要なのは、基づける項と基づけられる項が、違う秩序原理で成り立っているということなのです。(略)
 このように見てくると、この基づけ関係の重要な部分が見えてきましたね。つまり、「下位の秩序なしに上位の秩序を説明することができないにもかかわらず、上位の秩序なしで下位の秩序を説明することができない(上位の秩序が下位のそれを包み込んでいる)という関係です。》(224-225頁)


     ※
 もう一つのの対話では、「感情はクオリアではない」という河野の発言が面白かった。
 河野がいう「感覚として上がらないような、深い深い悲しみ」(クオリアのない悲しみ)や「淡々としているけれども強い怒り」とは、「気分」もしくは「場」のことなのではないかと指摘する前田に対して、河野がこう答えている。


《「場」、磁力のある場というような比喩的な言い方をしてもいいんでしょうね。ですから、どちらかというと感情というよりは「構造としての場」とか、「構えとしての感情」とかいったものでしょうか。(略)ある種の内的な感覚でしょうから、クオリアと呼べるとは思うんです。けれども、それは体の興奮状態のことで、同じような状態に、たとえば、緊張したときにもなると思うのです。怒りに固有のクオリアとは言えないのではないでしょうか。》(257-258頁)


 これを読んでいて、ダマシオの『感じる脳』と、NHKの「爆笑問題のニッポンの教養」(8月31日)に「出演」していた「赤ちゃんロボット」──大阪大学の石黒浩研究室(知能ロボット学)が開発したもので、ヒューマノイドロボット「Child-robot with Biomimetic Body」(CB2:CBキューブ)が正式名称──のことを想起した。