【大森荘蔵】立ち現われとしての哥

 大森荘蔵の「ことだま論──言葉と「もの‐ごと」」(『物と心』所収)を読んだ。
 2年前にも、桑子敏雄さんが『感性の哲学』で「大森哲学の白眉」と書かれていたのに触発されて読んだことがある。今回は著作集第四巻のゆったり組まれた活字で読んだ(巻末に収録された野矢茂樹さんの解説の出来栄えが実にいい)。日本歌学体系第八巻に収められた冨士谷御杖の『真言弁』とあわせて読んだ。その下巻に「言霊とは、言のうちにこもりて、活用の妙をたもちたる物を申すなり」云々に始まる「言霊の弁」の節がある。
 いま紀貫之の歌論を西田幾多郎に、藤原定家の歌論をウィトゲンシュタインにそれぞれ対応させて比較する試みに没頭している。たとえば古今集仮名序で貫之が「ちからをもいれずして、あめつちをうごかし、めに見えぬおに神をもあはれとおもはせ」と書いた和歌の力を、定家は「あめつちもあはれ知るとはいにしへの誰がいつはりぞ敷島の道」と否定した。このことの意味を冨士谷御杖と大森荘蔵の言霊論を比較することで考えてみたいと思った。
 大森を定家にひきつけて何か参考になるアイデアを密輸しようと目論んでいたのだが、「ことだま論」を熟読しているうち、大森荘蔵の「立ち現われ一元論」は定家と貫之の歌の世界(私の関心にひきつけて精確に書くと、定家と貫之の歌論の世界)をともに包摂しうる強さと深さと拡がりをもったものであることに気づいた(「立ち現われ」としての哥)。
 だからこれから折にふれて書くこと(大森荘蔵の著書からの任意の抜き書きと覚え書き)は本当は「哥の勉強」のカテゴリーに整理すべき事柄なのだが、この際いつかまとめて取り組みたいとかねてから気になっていた大森哲学(とりわけ晩年の三部作)のための専用の場所をしつらえることにした。
 以上、開会の辞として。