【大森荘蔵】ことだま論・第1節

 大森荘蔵の「ことだま論」は二つの節からなっている。
 第1節「無‐意味論」では、野矢茂樹さんが著作集第四巻解説で再整理した「私(主観)が‐その赤い本(対象)を‐私の目に映った見え姿(現象)において‐見る(作用)」という(さしあたっては知覚の現場に即して)四極構造のうちの第三項、すなわち知覚や想起や想像や空想等の様態における表象、そして言葉の意味の実在性が抹殺され、表象と対象の二元論にかわる「立ち現われ一元論」が提示される。
 第2節「対象は「じかに」──真理と実在の流動」では、四極構造の第二項すなわち対象が「立ち現われ」を離れて独立に実在するものでないことが論証される。二元論的構図における「(1) 言葉の意味を聞く、(2) その「意味」を了解し、(3) あることを思い浮かべ(表象し)、(4) その「表象」を通して「対象」に向う(または、「対象」が「表象」として「現出」する)」という四段構えが、「(1) 言葉(声振り、またはその想像)に触れられて、(2) 「立ち現われ」が「じかに」立ち現われる(さまざまな「同一体制」の会得を含んで)」という二段構えにとってかわられる(著作集第四巻,152-153頁)。


     ※
 第2節はメモを取りながらじっくり読んだので、書いておきたいこと、それを読んでいるとき私の脳髄に立ち上がりあるいは立ち現われたことがたくさんある。このことは次回にまわす。
 第1節はとりあえず大森哲学の世界の感触に慣れるつもりで軽く読み流したので、書くべきことがあまり思い浮かばない。それを読んでいるとき私の脳髄に立ち上がり立ち現われた事柄はきっとたくさんあったはずなのだが、時が経つにつれてそれらは消えて流れてしまった。それでも心に残ったことはいくつかあるので、そのうち「哥の勉強」にも関係する文章を二つばかり抜き書きしておこう。(本当は「脳髄に立ち上がる」や「思い(が心の中に)浮かぶ」や「心に残る」や「(心の中から)消えて流れる」などの言い方は大森哲学の世界では許されないと思うが。)


◎「声振り」に触れられ動かされること/ことだまは「人」に宿る/過去に遡って持続の相貌をもった「海」をじかに立ち現わしめること


《ましてや、「意味」を文字で記すなどということは不可能である。それは歌い方や弾き方を楽譜に記すことが不可能なのと同様である。……
 要するに、聞き手の側からすれば、言葉の意味の了解なるものは実は、話し手の声振りに触れられて動かされること、叙述の場合であれば、或る「もの」「こと」が或る仕方で訓練によって立ち現われること、じかに立ち現われること、に他ならない。そこに「意味」とか「表象」とか「心的過程」とかの仲介者、中継者が介入する余地はないのである。すなわち、言葉(声振り)がじかに「もの」や「こと」を立ち現わしめるのである。言葉の働きはこの点において、まさに「ことだま」的なのである。しかし、個々の人の身振りの一部である声振りを離れて言葉はない。したがって、「ことだま」が宿るのは声振りに、したがって身振り、したがって「人」に宿ると言うべきである。……「ことだま」がその声振りに宿るというのであれば、話し手の眼差しには「眼だま」が、手には「手だま」が宿るといわねばならない。このように、「ことだま」には何も神秘はない。
 叙述において、話し手が聞き手に「もの」「こと」を立ち現わしめる、といっても、それは打出の小槌のひと振りで何かを出現せしめるようなものではない。むしろ、広い意味で聞き手の視線をその「もの」「こと」に向けてやるのである。……わたしに、賀茂川が立ち現われるとき、その賀茂川はずっと以前から在るもの、という持続の相貌をもった賀茂川であり、「持続の途上」の相貌をもった賀茂川が立ち現われるのであって、無からの誕生の相貌で立ち現われるのではない。詩人が或る「こと」や「もの」を創造するときですらそうである。「ぶどー酒の一滴にほんのりあかく染まった海」(ヴァレリー)を立ち現わすときも、その海は悠久のかなたから、という相貌をもって立ち現われるのである。奇妙に聞こえるかもしれないが、詩人は過去に遡ってその海を創ったのである。》(138-139頁)


◎「呪文」「声振りの仕様書き」としての文字表現/声振りという実在によって人に触れること/何ごとかをじかに立ち現わしめること


《だが、われわれは屡々表現を求めて模索する。……それらは最終的には特定のあるいは不特定の他人に宛てられたものであっても、まずは自分自らに宛てての表現の模索である。今わたしもまた表現を模索している。わたし自らのために。
 こういうとき、或る「もの」「こと」が立ち現われていて、それを適切な表現で描写する、といった平板な作業ではない。……われわれは、それを凝視し、見定めよう、見極めようといら立つ。そこに、一つの表現(声振り、またはその想像)が立ち現われてくる。もしそれが的を射た表現であるときは、それまで渋々立ち現われていた「もの」「こと」はきっとその姿相貌を変え鮮やかにくっきりと立ち現われる。……
 われわれはその表現を文字に書きとめる。それはやっと立ち現われたその「もの」「こと」を逃がさぬように文字で縛りとめるためである。……その表現はまさに一つの呪文なのである。その呪文を声振り唱える(または、それを想像する)ことによって、その「もの」「こと」を繰り返しわたしに立ち現わしめることができる。そして幸運な場合は、わたしがそれを声振り、その声振りで人に触れると、その人にもまたそれを立ち現わしめることができるのである。また、著者の声振りを通さなくともその文字を「読む」ならば、人は自分にそれを立ち現わすことができる。少なくとも著者はそう願って「書く」のである。声振りの仕様書きとして。
 創作(物語りにせよ詩歌にせよ)の場合は、ときに、初めに立ち現われる「もの」「こと」がなく、作者は或る立ち現われを作るのである。前にも述べたように、そうして作られたものは、過去に遡って作られうる。今日、太古の森の何ごとかを作り、立ち現わしめることもできる。
 造形美術は、絵、彫刻、建物、等の物を作る。実在する物を作る。その物がたまたま他の何ごとかを「思わせ」、立ち現わすこともある。だが、それはたまたまである。しかし、声は、声振りという実在によって人に触れ、そうして何ごとかをじかに立ち現わしめることがその本来の働きなのである(音楽はその中間にあると言えよう)。
 それが「ことだま」の働きなのである。》(142-143頁)