【貫之現象学】思いに形を与えること

 心と物の関係をめぐる紀貫之の歌論(古今集仮名序)を「現象学的歌論」と名付け、その実質を(永井均命名による「西田現象学」を参照しながら)考察する、というか架設してみる。そんな試みに没頭している。貫之の歌論が「心と物の関係」をめぐるものであることの意味については、尼ヶ崎彬著『花鳥の使』に収められた「心と物─紀貫之」の結びの部分に出てくる次の文章が余すところなく、しかも美しくかつ明晰に伝えている。


◎思いに形を与えること/思いが我々を捉えているのであって、我々が思いを捉えているわけではない/記号というレッテルから物という鏡へ/我を物思わせる場の中に一片の象徴的な物を投げこむこと/〈物〉のイメージと〈思い〉の共喚起


《我々は、時に応じて様々の思いを抱く。恋の苦しみ、老の悲しみ、歓喜、屈辱、或いは憧憬。しかしその思いにただ浸るのみでなく、これを眼の前に置いて撫でさすりたいとか、誰かと共に分ちあいたい、或いは後世の人に伝えたいと考える時、我々はこの思いに一つの客観的な形を与えねばならない。その思いを絵に表し音楽に作るのも、形を与える一つの方法であろうが、中でも最も手近な方法と見えるのは、言葉でこれを捉えることである。しかし、我々は当の思いないし気分の内に浸っているのであって、概念の如くこれを操作しうるものとして持っているわけではない。つまり、思いが我我[ママ]を捉えているのであって、我々が思いを捉えているわけではない。それゆえ、この思いは元々捉え所がないばかりか、言葉の網を不用意にかければ、肝心の元の肌触りを全て失ってしまうことになる。例えば「悲しい」とか「恋しい」という記号を並べただけでは、人の胸を掴んで動揺させることはできない。これらの語彙は、ただ感情の種類を大まかに分類するだけのレッテルでしかないからである。では、人を捉えるこの思いに形を与え、人がこれを捉えうるものにするにはどうすればよいであろうか。いにしえの歌人たちは、我を物思わせる場の中に一片の象徴的な〈物〉を投げこむ時、無形の水蒸気が一片の塵を核として雪に結晶するように、思いが凝固して一つの形を得ることを発見したのである。〈物〉という鏡に映すことによって、〈思い〉は生きたままその姿を定着させる。読者は〈物〉のイメージを喚び起こしつつ、そこに映された〈思い〉をも喚び起こすのである。》(『花鳥の使』64-65頁)