【貫之現象学】言霊と歌の姿と私的言語をめぐるメモ

 貫之現象学の実質を「言霊と聲」「歌の姿(歌体)と共感覚」「哥と私的言語」の三つの切り口から考察してみる。おぼろげにそうした見取り図を作図している。その見取り図どおりに作業が進むかどうかは実際にやってみなければわからないけれども、なんとかまとまったらそのうち『コーラ』に連載している「哥とクオリア/ペルソナと哥」に書くことになると思う。
 その「言霊と聲」については、永井均著『西田幾多郎』と尼ヶ崎彬著『花鳥の使』を基本に、富士谷御杖の歌論(尼ヶ崎本のほか、坂部恵著『仮面の解釈学』でも言及されている)や大森荘蔵の「ことだま論」(『物と心』)、川田順造著『聲』、前田英樹著『言葉と在るものの声』などを参考文献として読み込み、そこから抽出したアイデアを自在に(勝手に)使いまわすことで作業を進めるつもり。
 で、前田本の冒頭、第一章「物、心、言語の三つの関係について」の最初の3節分(「〈物〉が在ること」「〈心〉が在ること」「〈言語〉が在ること」)を読み返していて思いつくことがいくつかあったので、忘れないうちにその残り香のようなものを覚書のかたちでここに記録しておくことにする。語彙や概念の使用法について疑問、不満は残るが、その検証と精緻化は今後の作業に委ねる。


◎哥はギフトである。哥は神(カミ、迦美)からの授かり物であり、神への捧げ物である。(哥は啓示=預言であり、祈りである。)
中沢新一ラカンの語彙を借用すると、哥は「純粋贈与(=聖霊)=現実界」の圏域に属する。だから、目に見えない。言葉で掴みとることもできない。(哥は概念ではない。)
◎しかし、哥は実在する。哥は、潜在的(ヴァーチュアル)な次元で実在する。


◎潜在性としての哥の実在をその歌論の中核にすえたのが藤原俊成である。(貫之現象学。俊成系譜学。定家論理学。)


◎哥が歌(声)として詠み出されたとき、哥は実在する。哥が現働化されアクチュアルな次元で歌として実在するその現場において、哥は潜在性として実在する。
◎詠み出された歌(声)は「贈与(=子)=想像界」の圏域に属する。たとえば贈答歌、屏風歌として。あるいは歌合の宴における題詠のかたちで。もしくは孤独な心(孤心)の表出として。
◎詠み出された歌(声)の「効果」が言霊の力である。身体から身体への感情の伝達。共感情。
◎あるいは声振りとその想像(内語)の「効果」としての言霊の力。立ち現わしめる力。声は身のうち(大森荘蔵)。


◎哥と歌。聲と声。〈身〉と身体。〈顔〉と顔。〈物〉と物。〈心〉と心。〈思い〉と思い。詞と言葉。(ラングとパロール。もしくはクオリア憑きの言葉とただの言葉。)


◎感情と感覚(クオリア)は詞のうちでつながっている。一つの身体のうちでの共感覚。異なる身体に宿る共感覚
◎歌は「物」に付託して詠み出される(貫之)。尼ヶ崎氏の語彙では、哥は「一片の象徴的な〈物〉」に託して詠み出される。
◎「一片の象徴的な〈物〉」とは、端的にいって「言葉」のことだろう。だとすると、言葉で綴られた歌は「交換(=父)=象徴界」の圏域に属している。
◎詞華集の問題。一首の歌の意味(歌の心)はアンソロジー全体のうちに占める位置で測られる。(全体は一首の歌によって現働化される。)
◎あるいは「一片の象徴的な〈物〉」とはクオリアのことかもしれない。クオリア憑きの言葉としての歌。〈物〉としての歌。
◎尼ヶ崎は、「一片の象徴的な〈物〉」を「物という鏡」もしくは「〈物〉のイメージ」と言い換えている。「質量世界」へと架橋する歌。


◎「純粋贈与/贈与/交換」。「歌の姿(歌体)/言霊/言語ゲーム」。この二つの三組は構造的に相同である。「Q⇒P(q⇒p)」のかたちに表記できる。「Q」:純粋贈与:歌の姿、「P」:贈与=言霊、「(Q⇒P)」:交換=言語ゲーム。ここで「(q⇒p)」の丸括弧内に出てくる「q」が私的言語である。


◎「実在」の軸を垂直に引く。下方(ヴァーチュアリティ)から上方(アクチュアリティ)への現働化の動きを内在させた軸。
 次に、「現実」の軸を水平に描く。左方(リアリティ)から右方(ポッシビリティ)への抽象化の動きを内在させた軸。
 そして、この二つの軸を直交させて四つの象限を得る。「質量世界」と「言語世界」に共通する構造。
◎この構造の第二象限(アクチュアリティ+リアリティ)を「言霊」(P)、第三象限(ヴァーチュアリティ+リアリティ)を「歌の姿(歌体)」(Q)、第四象限(ヴァーチュアリティ+ポッシビリティ)を「私的言語」(q)と名づけ、第一象限(アクチュアリティ+ポッシビリティ)と第四象限との関係を「言語ゲーム」((q⇒p))と名づける。
◎この「言語ゲーム」は西田現象学=貫之現象学の立場から見られたもので、(ニーチェ系譜学=俊成系譜学を経て到達される)ウィトゲンシュタイン論理学=定家論理学の立場から見た「言語ゲーム」とは様相を異にしている。