高田純次のギャグ

 昨夜のテレビで、高田純次が、「なぜ人はグラスを持つとき小指を立てるのか、それは親指を立てるとグラスが落ちるから」とギャグを飛ばして笑いを取っていた。このギャグのどこが可笑しいのだろうか。
 親指以外だったら、人差し指でも中指でも薬指でも立てられるのに、なぜことさらに人は小指を立てるのか、その理由を高田純次は答えていない。もっと厳密にいうと、片手でグラスを持って床に落とさないようにするためには、親指とあと最低1本の指を使えばいい(親指以外の指を1本立てても、2本立てても、3本立ててもいい)のだから、その組み合わせの数を計算すると、合計14通りの指の立て方がある。それだけの選択肢があるなかで、どうして人はことさら小指を1本立ててグラスを持つのか、その理由を高田純次は答えていない。
 これに「グラスを片手で持つとき、指を立てない」という選択肢を含めると、「片手でグラスを持って床に落とさない」ための指の立て方の組み合わせの数は合計で15通りになる。それだけの選択肢があるなかで、どうして人は……、というより、そもそも「なぜ人は片手でグラスを持つときに指を立てるのか、そしてその場合、なぜ小指を立てるのか」という二段の問いに、高田純次はまるで答えていない。
 でも、高田純次のギャグの可笑しさは、そういう論理的な穴や綻びにあるわけではない。人は、奇妙な論理におかしさを感じるけれども、それだからといって思わず笑ったりはしない(意図的な冷笑や嘲笑は別として)。いや、あまりに破天荒な論理の飛躍には思わず笑ってしまうことがあるかもしれないが、高田純次のギャグがそこまで飛んでいるとも思えない。
 「なぜ人はグラスを持つとき小指を立てるのか」という問いは、そのような論理的な次元のものではない。また、人の指の筋肉の生理学的な構造や機能をめぐる科学的な答えが求められているわけでもない。そのような問いを立てるとき、人はたぶん人間の心理や行動、社会の文化や慣習などをめぐる何か気の利いた答えを望んでいる。しゃれた答えを提出した人に喝采をおくりそれを肴に会話がさらに弾んでいく、そうした効果が期待される場面でこそ、「なぜ人はグラスを持つとき小指を立てるのか」などというどうでもいい問いが意味のある問いとして(会話を弾ませるバネのようなものとして)成り立つのだろう。
 高田純次がギャグを飛ばしたのは、まさに会話が弾むこと自体を目的としたテレビ番組の中でのことだった。出演者も視聴者も、そこで高田純次一流のギャグが飛び出すことを期待していた。だからこそ「親指を立てるとグラスが落ちるから」という答えは可笑しかったのだろう。このギャグを笑った人は、笑いたかったから笑ったのだ。そういう意味では、答えは何でもよかったのだ。何も答えず、あるいは「わかりません」と答えても、もしかすると高田純次は笑いを取れたかもしれないのである。
 ただ、「なぜ人はグラスを持つとき小指を立てるのか」という人間の心理や行動、社会の文化や慣習に関連づけられた問いに対して、「親指を立てるとグラスが落ちるから」という物理学の法則に則った答えを出したところに、高田純次のギャグの冴えはあった(人間的なものの機械的なこわばり云々の議論をもちださないまでも)。