2005-01-01から1年間の記事一覧

『音楽入門』

北沢方邦『音楽入門──広がる音の宇宙へ』読了。 荘子は音楽を「天(宇宙)の音楽」「地(自然)の音楽」「人間の音楽」に区分した。 著者は本書の前半(第一章〜第三章)で、わが国の古代を含む環太平洋文明圏における「スリット・ドラムまたは太鼓という楽…

『神と自然の科学史』

川崎謙『神と自然の科学史』読了。こういう本を読みたかった。 第Ⅰ部で、ロゴス(言葉=神)の枠組みの中で展開された西洋形而上学と西洋自然科学(自然哲学)の歴史が簡潔的確に叙述される。 これと対比させながら第Ⅱ部では、道元によって日本的に変容され…

最近買った本・読んだ本

最近買った本。 その1.『小林秀雄対話集』(講談社文芸文庫)。 9月に刊行されたときから、いずれ購入して読むことになるだろうと思っていた。 実際、翌月ほとんど買いかけていたのにレジに向かう寸前になって気が変わり、結局『柳田國男文芸論集』を選ん…

最近読んだ雑誌──『中央公論』『文藝春秋』

総合雑誌といわれるものを、たまには読む。 ●『中央公論』1月号。 甲野善紀と内田樹の対談「“学び”とは別人になることだ」を読んだ。 ここには叡智の言葉が惜しげもなく鏤められている。 学びとは商品の売買ではない、「本当の意味での学びのプロセスでは、…

最近読んだ雑誌──『NewsWeek』

『NewsWeek』年末恒例の特集「ISSUES 2006」を読んだ。 キーワードは「知の経済」。 あいかわらずきびきびした文章と冴えた視点と(それに賛同できるかどうかは別として)明確なスタンスをもってバランスよく配分された記事。 記憶に残った箇所を抜き書き…

『物質と記憶』(第19回・補遺)

昨日、『物質と記憶』の結論が見えている、そういう頭で読み進めてはいけない、もっと細部を細かく割って読まなければいけないと、自戒の言葉を書き連ねた。 これを言いかえれば、よく判らない箇所がある、そういうところを読み飛ばしてはいけない、というし…

『物質と記憶』(第19回)

今年最後の『物質と記憶』独り読書会。 第四章「イマージュの限定と固定について──知覚と物質、心と身体」の最初の二節、「二元論の問題」と「従うべき方法」を読んだ。 冒頭で、これまでの三章から引き出される「一般的結論」が示される。 すなわち、身体(…

『チェーホフの戦争』

宮沢章夫『チェーホフの戦争』読了。 書名に惹かれて衝動買いをして、それほど期待もしないで読み始めたらたちまち引き込まれ、とうとう最後まで一息に読み切ってしまった。 息継ぎを忘れたわけではないが、気分としてはチェーホフの四大劇を幕間の休憩もな…

旅先で読んだ本──バタイユとチェーホフ

昨日まで二泊三日で東京へ出張。 旅先ではいつもきまって食べ過ぎる。 食いっぱぐれるのをおそれるからだが、とうに夕食をすませているのにコンビニでカップ麺やらバターピーナツやらを買ってホテルに持ちこみ、買った以上は食べないともったいないと思って…

『美と宗教の発見』第三部(続々)

抜き書きが楽しくなってきたので、もう一つついでに。 「浄土教的感情様式について」に「二十五三昧式」(『恵心僧都全集』)からの引用文──「次に、人道とは此の身常に不浄にして、雑穢其の中に満つ。内に生熟臓あり、外には皮膜を相ひ覆へり」云々──を「見…

『美と宗教の発見』第三部(続)

昨日書き残したこと。 「浄土教的感情様式について」と「壬生忠岑「和歌体十種」について」の不即不離の関係。 いずれも日本の宗教と和歌にあらわれた「精神の形と論理」をめぐるマグマのような熱のこもった論考で、要領よくその論旨を捌いてみせても(そん…

『美と宗教の発見』第三部

梅原猛『美と宗教の発見』第三部の第一論文「「固有神道」覚え書き」の冒頭に次の文章が出てくる。 しばしば物の真相は、一つの体系で説明されるより、そのものの真相を追究する多くの断片的に見える観察と思惟の束によって明らかになることがある。私はここ…

『無意識の思考』

イグナシオ・マテ‐ブランコの『無意識の思考──心的世界の基底と臨床の空間』(岡達治訳)を買った。 以前、『現代思想』(vol.24-No.12,1996)でブランコの「分裂症における基礎的な論理─数学的構造」(廣石正和訳)を読んだことがある。 無意識の論理は、科…

『物質と記憶』(第18回)

『物質と記憶』第三章の残り五節を読んだ。 生命体の感覚=運動的基体をなす知覚の平面と記憶の逆円錐。 本性上異なるこれら二つのものがただ一点で交わり、記憶はそこで現実と接触する。 たんに「演ぜられる」心理的生活(知覚の平面S)ともっぱら「夢みら…

『西洋音楽史』

岡田暁生『西洋音楽史──「クラシック」の黄昏』読了。 「諸君、脱帽したまえ、名著だ!」 本書は「音楽の聴き方」についてのガイドである。 著者は自著をそう解説している。 その意味は「音楽を歴史的に聴く」ということだ。 西洋芸術音楽は「書かれたもの(…

『美と宗教の発見』第二部(承前)

坂部恵『仮面の解釈学』によると、日本の古語における「しるし」とは「一つの現象[あらわれ]が、他のことなった現象[あらわれ]をしるしづけるところに成立する二重化された現象[あらわれ]にほかなら」(163頁)ず、「しるしにおいて、〈しるすもの〉と…

『美と宗教の発見』第二部

梅原猛『美と宗教の発見』の第一部末尾に次の文章が出てきて、歌論を中心に据えながら日本の「感情の論理」(桑原武夫:209頁)や「感情の配置」(304頁)を論じる第二部へのつなぎの役割を果たしている。 かつ第三部で主題的にあつかわれる日本の宗教心性(…

『五感で味わうフランス文学』その他

図書館で借りた本は気楽に読めていい。 摘み読みとか拾い読み、斜め読み、一点読みに部分読み、目次読み、速読、はては継続、継続の積ん読という高度な(そして傍迷惑な)戦術まで、自在に駆使することができる。 これに対して自腹を切って買った本は、投下…

『数学史入門』

佐々木力『数学史入門──微分積分学の成立』を買った。 20周年を迎えたちくま(学芸)文庫から「Math & Science」というシリーズが出ることになった。 「通勤電車のなかにピュタゴラス、カフェにはアインシュタインがいたりしたら、面白いと思いませんか?」…

『クオリア降臨』『脳の中の人生』

茂木健一郎『クオリア降臨』読了。 読み始めに覚えた違和感(茂木氏の文学観に対する)が最後まで足をひっぱって、いまひとつ読中感が高揚しなかった。 それでも、エピソード記憶と意味記憶をめぐって開高健『夏の闇』の「女」の話題が樋口一葉や小林秀雄と…

『物質と記憶』(第17回)

『物質と記憶』の独り読書会。 第三章の五節「一般観念と記憶力」と六節「観念連合」を読む。 類似=知覚と差異=記憶。 「意識をもつ自動人形」(175頁)によって演じられる生きられた類似と「自己の生活を生きるかわりに夢みるような人間存在」(同)によ…

堀江敏幸の「時制感覚」

昨日、堀江敏幸の文章が「複雑で鋭敏な時制感覚」によって屈折していると書いたことについて。 あるいは、堀江敏幸の「特異な時制感覚」といいうるものがあるとして、はたしてその実質はなにかをめぐって。 私が念頭においていたのは、過去のある時点で撮ら…

『熊の敷石』『雪沼とその周辺』

堀江敏幸の短編集を二冊つづけて読んだ。 なぜこれまでこの人の作品にふれることがなかったのだろうという、ありえたにちがいないたくさんの大切な時間をとりかえしようもなく喪った悔いの思いと同時に、これからこの人のけっして多産ではない過去の作品群を…

『西洋音楽史』

岡田暁生『西洋音楽史──「クラシック」の黄昏』(中公新書)を買って「まえがき」と「あとがき」と目次を読んだ。 北沢方邦『音楽入門──広がる音の宇宙へ』がまだ半分も進まないのに、ある人が絶賛していたのにつられて入手したのだが、この人の文章は実にい…

『俳句という遊び』

小林恭二『俳句という遊び──句会の空間』(岩波新書)を買って「はじめに」とプロローグとエピローグ「句会とは何か」、そして「あとがき」を読んだ。 「俳句を媒介にして、日常とりえないような高度で玄妙なコミュニケーション(=遊び)をとれるような座、…

『ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記』訳者解説

レヴィナスは嫌いだし怖いが、ウィトゲンシュタインには昔から惹かれつづけてきた。 実際に会って話をすると、レヴィナスは慈愛と親愛に満ちた師であり、ウィトゲンシュタインは峻厳で冷酷な友なのかもしれない。 もちろんそんな想像にはなんの意味もない。 …

『全体性と無限(上)』序文

熊野純彦訳のレヴィナス『全体性と無限(上)──外部性をめぐる試論』(岩波文庫)を買って20頁ほどの序文を読んだ。 内田樹さんの『他者と死者』(24頁)に、レヴィナスとラカンはわざと分かりにくく書く「大人」であると書いてある。 また、彼らが量産する「…

『物質と記憶』(第16回)

『物質と記憶』。第三章の四節「過去と現在の関係」を読む。 このあたりまで来ると、なにも一節ずつ律儀に読まずとも一気呵成に最後まで突入できそうなものだが、それをやるとたんなる黙読にすぎず、独り読書会の意義を失う。 では独り読書会の意義は何かと…

無尽講

臨床つながりの話題から。 「臨床仏教カウンセリング協会」というのがある。 定款を見ると第四条に「本会は、「臨仏カ」に関連して、次の活動を行う」と書いてある。 「臨仏カ」とは面妖だが仏の力の臨在を思わせる力強い言葉だと感心していると、これは「臨…

臨床哲学

臨床哲学という語を最初に使ったのが誰なのか知らない。 そもそもの発端は中村雄二郎さんが提唱した「臨床の知」あたりではないかと思うのだが、よく知らない。 外国語にあるのかどうかも知らない。 私が知るかぎり、養老孟司さんにそのものずばりの書名の著…