『美と宗教の発見』第三部(続)

昨日書き残したこと。
浄土教的感情様式について」と「壬生忠岑「和歌体十種」について」の不即不離の関係。
いずれも日本の宗教と和歌にあらわれた「精神の形と論理」をめぐるマグマのような熱のこもった論考で、要領よくその論旨を捌いてみせても(そんなことはとてもできない)冷え切った火山岩がごろごろと醜い姿をさらすだけのこと。
ここではただ素材を生のまま抜きだしておく。
まずは平安朝貴族たちの「浄土的意識」における「否定の美学」を論じたくだりから。

[闇につつまれた現在の世界の]遠い向うに、光[浄土]がある。光は既に現在においてあきらかになっている。しかし、光はまだ十分、明らかでない。実在する光を、遠く離れた距離から、ちらりちらりとほの見ること、この既に光を見る喜びとまだない悲しみの交錯した美意識が、おそらく「幽玄」と称せられる中世の美意識の姿であり、その美意識の形成に、浄土教が大きな役割をしているのではないかということは、既に私が他の論文で分析した所である。(「浄土教的感情様式について」)

次に、その「他の論文」の該当個所を(前後の脈絡を抜きにして)引用する。

 これはたいへんむつかしい問題である。この問題は美と宗教の交錯する問題であり、たとえ忠岑の十体論における美的評価が、『観無量寿経』にとくに浄土教的感情内容と類似しているとしても、十体が、浄土教を受け入れやすくなっていた平安貴族の感情を語っているのか、あるいは十体の中にすでに浄土思想のはっきりした影響があるのか、今の私は前の説をとりたいが、一概に断定出来ない問題である。しかし、はっきりいえることは、少なくとも近代まで、人間の感情には宗教というものが大きな影響をあたえたものであり、したがってわれわれは、感情のもっとも明瞭なあらわれを美や芸術に見るにせよ、この美や芸術の感情の形を宗教との関連において考えねばならないということであろう。人間が作り出したもっとも微妙で神秘な世界、それはおそらく芸術と宗教の世界であろうが、この両者の関係をとくかぎがこの感情というものなのである。
 とにかくこの忠岑十体は、日本人の美意識に大きな影響をあたえる美意識を、高情としての幽玄の美意識を作り出したのである。その美意識は、浄土教的なものと調和出来る美意識であり以後の日本人の美意識に大きな影響を与える。この美意識が平安時代を貫く美意識であったとすれば、新しい歌はそれにたいする反駁として出現する。「貫之、[……]余情妖艶の体をよまず」といって歌を寛平以前の姿にかえそうとした定家の主張は、おそらくは忠岑に始まり、公任[藤原公任]によって一層はっきりさせられた歌論への反駁であったのであろう。(「壬生忠岑「和歌体十種」について」235-236頁)

ついでに忠岑十体のエッセンスが述べられる部分を(これもまた前後の脈絡を抜きにして)引用する。

 このように十体論を見ると、われわれには忠岑の「十体論」がかなり精密な美的感情の分類であるばかりか、そこに一種の美的感情の発展運動さえみとめられるように思われる。まず古歌体で、対象の動きのはげしい感情が拒否され、直体において、感情はうつりゆく自然や人生への喜び悲しみとなり、余情体ではその悲しみが得られない対象を思う感情に深まり、その悲しみの感情が更に写思体では絶望の自己意識となるが、一転して高情体では、感情は遠い実在する光にたいするあこがれとなり、更に器量体ではその光が広々と眼前に広がる爽快の感情となるが、最後にこの感情が、理性化され、あるいは推論し、あるいは観察し、あるいは比較する感情の希薄化された姿で終るのである。この十体論の中にあるいは漢詩の起承転結の法則を忠岑は意識的にもりこんだのかもしれない。
 それは見事な意識の動きのとらえ方のように思われるが、写思体から高情体への変化の中に一つの大きな転換があるかに思われる。それは対象が、人間から自然にうつったのみではない。絶望にまで否定的に深まった意識が、ひそかに肯定の感情へと転化されるのである。忠岑が余情体を重んじながら、高情体を一番重視したのは、一つの美意識の革命であったように思われる。おそらく余情体、写思体に属することが多いと思われる六歌仙時代の悲哀の調子の強い歌体より、遠い光への憧れを歌う古今以後の歌体へと変化するのである。こうして幽玄の理念が形成されるのである。忠岑においては幽玄は余情体ではない。幽玄は高情体である。それは悲哀の色濃い感情ではなく、深く隠れた実在者がヴェールの彼方から見えがくれする、憧れと悲哀のまざった複雑な感情なのであろう。高情体、幽玄体が歌の最高理想とされることにより、悲哀のはげしい歌よりおぼろな憧憬の歌の方が、中古の理想となるのである。(「壬生忠岑「和歌体十種」について」232-233頁)