『美と宗教の発見』第三部(続々)

抜き書きが楽しくなってきたので、もう一つついでに。
浄土教的感情様式について」に「二十五三昧式」(『恵心僧都全集』)からの引用文──「次に、人道とは此の身常に不浄にして、雑穢其の中に満つ。内に生熟臓あり、外には皮膜を相ひ覆へり」云々──を「見事な文章である」と讃える箇所がある。
「われわれはそこに『平家物語』や『徒然草』や『方丈記』の文章の先駆を見るであろうが、われわれがこうした感情や、こうした思想を創造者の手によるより、模倣者の手によって知ってきたとしたら何と悲しむべきことであろう。」(345頁)
これと同趣旨のことは第一部にも何度か出てくる。いまその一例を引用しておく。

 廃仏毀釈は決して、既に終った歴史的事件ではない。国学や水戸学は既に影響力を全く失ったわけではない。たとえば、国語教育。明治以来、すべての中学生は、国語と漢文を習った。国語では、主として、『枕草子』『徒然草』『方丈記』『おくのほそ道』など、漢文では『論語』に、『孟子』に、『十八史略』などを習った。もしもこのようなものが、日本および中国の古典であるとすれば、かつて日本人の教養の中で、大きな位置を占めていた仏教の教養はどうなったのだろうか。たとえば、雄大な思想を比類なく雄渾な文体にもった見事な空海の文章、一言一句が無常な人生の前にたつ緊張感にふるえるかのような源信の文章、あるいは、内面の深い罪のうめきを、執拗に追いかけるような親鸞の文章、そして、無類の宗教的情熱を、断定的な命題に託した日蓮の文章、それらの文章は、日本のもっともすぐれた人間が達することの出来た、もっとも深い精神の表現だと思うが、こうした文章は、一切国語教育から落されてゆく。熱烈に自己の主張を語るとき、人は必ず宗教的にならざるをえないが、こうした宗教的な文章は、いっさい国語の教材から落される。そして兼好とか長明とかという、人生にたいする積極的情熱を欠いたニヒルな人間の文章が、日本の文章の模範とされるのである。
 国語教育は、その国の最高の人間が書いた、豊かな思想と深い情感にみちた最良の文章によって行なわれるべきである。そして、古い文化をもち、しかも仏教が文化の中心にしみこんだこの国では、もっともすぐれた精神は、多く仏教思想のかたちをとって己れの思想を語った。しかも仏教はキリスト教のように、単一の教義への信仰ではなく、むしろ、それは仏説の実にさまざまな解釈をゆるす百花繚乱たる思想なのである。……以下略(89頁)

「日本人の宗教的痴呆」のサブタイトルをもつ第一部の第二論文「明治百年における日本の自己誤認」からの抜き書きである。
このあと数頁にわたって梅原猛の名調子が続く。
「かつて日本人は『観経』を読み、そこに魂の深い不安の姿を見た。かつて日本人は『観音経』を読み、そこに生命の変化の神秘を感じた。かつて日本人は『般若心経』を読み、そこに煩悩を離れる生命の知恵を見た。こうしたいくつかの深い精神の書から、われわれは永い間遠ざかってしまった。」(91-92頁)
全文引用しておきたいが、これくらいで止める。
(いまは歌論で手一杯。とても「深い精神の書」にまで手がだせない。)