旅先で読んだ本──バタイユとチェーホフ

昨日まで二泊三日で東京へ出張。
旅先ではいつもきまって食べ過ぎる。
食いっぱぐれるのをおそれるからだが、とうに夕食をすませているのにコンビニでカップ麺やらバターピーナツやらを買ってホテルに持ちこみ、買った以上は食べないともったいないと思って胃腸薬といっしょに胃に押しこむのはどう考えたって倒錯している。
寒波には負けなかったけれど、おかげで躰の調子がおかしくなって頭がぼおーっとしている。


旅先で読んだのは薄い文庫本三冊。
まず、ちくま学芸文庫から先月出たジョルジュ・バタイユの『ランスの大聖堂』(酒井健訳)。
本文が150頁で、訳者の解説やあとがきが50頁。
本文にも詳細な訳註や図版がついていて、読むだけなら新幹線で新神戸から東京までの2時間少々で十分読み終える勘定だが、なにしろバタイユのテクストは訳者がいうように「寝転がって読めるだとか、通勤電車のなかで楽しめるといった気楽な読書からは程遠い」代物だから、二つか三つの短いテクストを繰り返し読んでいるうちあっという間に予定の時間が過ぎていった。
ちくま学芸文庫からはこれ以外に『文学の悪』(山本功訳)と『エロスの涙』(森本和夫訳)と『宗教の理論』(湯浅博雄訳)と『呪われた部分 有用性の限界』(中山元訳)と『エロティシズム』(酒井健訳)の五冊が出ていて、いずれも読み囓ったまま。
バタイユの著書は学生の頃、チェーザレパヴェーゼの作品とともに『眼球譚』や『空の青み』といった小説に熱中して以来、これまでから何度も何度も読んできたが、小説作品以外まともに最後まで読み通せたためしがない。
これを機に、ピエール・クロソウスキーともども集中的に読みこんでみたいという思いが募ってくるけれど、当面の「読書計画」にもぐりこませるのは至難の業。
文庫カバー裏の紹介文がよく出来ていたので、書き写しておく。

 21歳での処女出版『ランスの大聖堂』と、第2次大戦前後の重要テクスト選集。1918年の表題作は信仰時代の青年バタイユの貴重な証言であり、すでに聖性における究極の脱自という生涯のテーマがうかがわれる。ほかに、信仰放棄後の地母神と大地の闇に光を当てるディオニュソス的母性論、消尽のエネルギーを論じるプロメテウス=ゴッホ論など『無神学大全』の思索の原型から、戦後のシュルレアリスムへの逆説的擁護や実存主義との対決、凝縮されたイメージに神を透視する論考など17のテクスト。バタイユ最初期から中期のエッセンス。


旅先で読んだあとの二冊は、新潮文庫の『桜の園・三人姉妹』と『かもめ・ワーニャ伯父さん』(神西清訳)。
いわゆるチェーホフの四大劇。
いずれも同じ神西清訳の中公全集版で読んだことがあるし、文庫もたぶん持っている。
チェーホフの戯曲のなにがこれほど面白いのか、それを言葉で説明することはむつかしい。
「静劇」と呼ばれるチェーホフ独特の舞台空間。
そこでは出来事らしい出来事が何も起きない。
出来事はすべて舞台の外で進行する。
そういった言い古された言葉が、しかしそうした言い方でしか表現できないある空虚な実質をともなって、チェーホフの戯曲を読むという体験とともに立ちあがってくる。
それにしてもチェーホフの戯曲を読むというポジションには独特のものがある。
その昔、宇野重吉の『チェーホフの『桜の園』について』を読んで、なるほど演出家とはこういうふうに戯曲を読むのかと感心し(具体的な中身はまるで覚えていないが)、同時にチェーホフの戯曲がはらんでいるある過剰なもの、そしてそのことと表裏をなすものとしてのある過小さ、もしくは意図的に書き込まれていないものが読み手の側の解釈や批評へ向けた欲望をかきたてる、そうしたチェーホフ独特の作劇術に驚きかつ魅了されたことがある。
昨日、一昨日と続けて読み耽ってみて、あらためてそのことに思い至った。
いったいどうしてこれほどまでに面白いのか。
面白く読んだのならそれでいいじゃないか、ではなぜか納得できないのである。
バタイユと並べて読むのにふさわしかったかどうかは何とも言えないが、とつぜんチェーホフの戯曲を読んだことには訳がある。
先日、なにか新刊書をサクサクと読みたくなり、タイトルに惹かれて『チェーホフの戦争』(青土社)を買った。
数頁読んで、この文体はあの『よくわからないねじ』や『茫然とする技術』で「脱力感みなぎる」エッセイを書いている宮沢章夫の文体だと思いあたって、著者名を確認するとやはり宮沢章夫だった。
この人の本職は劇作家・演出家で、ネットに残っていた「富士日記」や「不在日記」を読むとたしかに劇作や演出をしているし、小説も書いている。
そういうことはどうでもよくて、『チェーホフの戦争』をちゃんと読むためには、そこでとりあげられているチェーホフの四大劇をきちんと読み直しておかないといけないと思ったので、さっそく読んでみたわけだ。
チェーホフ熱が再発したのはその余禄のようなもので、ようやく9巻目にさしかかった中公全集版をひもといてみるのもいいけれど、「寝転がって読めるだとか、通勤電車のなかで楽しめるといった気楽な読書」のために、旅行からの帰りに新潮文庫から出ている三冊目のチェーホフ本『かわいい女・犬を連れた奥さん』(小笠原豊樹訳)を買ったのだが、これもたぶん持っている。