時間の外、非人称的な読書空間(後半)



モーリス・ブランショ『来るべき書物』(粟津則雄訳,ちくま学芸文庫


 ヘッセ論(「H・H」)は素晴らしかった。『デミアン』について6頁にわたって論じられていたのが嬉しかった。(前半のヴァージニア・ウルフと後半のヘッセにはとても誘惑された。すべての作品を読みたいと強く思った。)


 ヘッセ論は素晴らしかったが、後半の圧巻はやはりマラルメ論(「来るべき書物」)だった。さっぱりわからないのだが、その難解さがたまらなく名人芸的で魅力的なのだ。
 20世紀文学の二人の巨魁が相四つに組んで一歩もひかない。しめあげられる筋肉のきしみが悲鳴となって聞こえる。「『骰子一擲』は、来るべき書物である。」(496頁)この行司の勝ち名乗りは、非人称的な空間で闘われた文学的四つ相撲の「何の名前も持たぬ」勝者の名を告げている。
 「書物の交流」というアイデアが面白かったので、ブランショの文章を引く。


《作者も読者も持たぬ‘書物’は、必ずしも閉じられたものではなく、つねに運動状態にあるが、もしこの‘書物’が、何らかのかたちで自分自身の外に出ないならば、また、その構造にほかならぬ動的な内奥性に応ずるために、おのれのへだたりそのものと触れあうような外部を見出さないならば、いかにしてそれは、おのれを構成するリズムにしたがっておのれを断言しうるだろう? この‘書物’には媒介者が必要だ。それが、読むという行為そのものなのである。ここに言う読む行為は、つねに著作をおのれの偶然的な個人性に近付けようとするそこらの読者の行う読書ではない。マラルメは、この本質的な読書の声となるだろう。作者として消滅し排除されるが、この消滅を通して、彼は、‘書物’の、立現われながら消え去っている本質と関わるのだ。この‘書物’の交流にほかならぬ絶えまないゆれ動きと関わるのだ。》(502頁)


《彼[マラルメ]は、真の意味で読者ではない。読む行為そのものなのである。それを通して、書物が書物自身に交流する交流運動そのものなのである──、この運動は、まず第一に、用紙の可動性がそれを可能にし必然的にするさまざまな物理的交換(*)によって行われるのであり、次いで、言語がさまざまなジャンルさまざまな芸術を統合することによって作りあげる新たなる理解の運動によって行われる。最後にまた、書物がそれを出発点として、それ自身の方へ、またわれわれの方へおもむき、われわれを空間と諸時間の極限的な作用にさらすような、例外的な未来によって行われる。》(502-503頁)


 よくわからない。わからないけれど気になってしかたがない。
 後段の引用文中「(*)」の印で示した箇所にブランショは、マラルメの「草稿によれば、書物は、ルーズ・リーフによって構成される」と註をつけている。面白い。


 前半でもふれたカフカの断片に関する文章を「日記と物語」から引いておきたい。


《われわれには、何故作家が、自分が書いていない作品の日記しかつけえないかがわかる。その日記は、想像的なものとなり、それを書く人間と同様、仮構という非現実性のなかに沈むことによって、はじめて書かれうるということもわかる。この仮構は、それが準備している作品と必ずしもかかわりを持たぬ。カフカの『日記』は、彼の生活と関係のある日付のついた記述や、彼が見た物会った人の描写ばかりではなく、数多い物語の草稿で出来ている。そのなかの或るものは数ページに及ぶが、たいていはほんの数行であり、多くの場合すでにはっきりと形をなしてはいるが、すべて未完成である。そして、もっともおどろくべきことは、ほとんどどれひとつとして、別の草稿と関係がなく、すでに用いられた主題のくり返しではない点だ。同様にまた、日々の出来事とはっきりした関係を持たぬ点だ。ところが一方、われわれは、マルト・ロベールが指摘しているように、これらの断片が「生きられた事実と芸術とのあいだで」、生きているカフカと書いているカフカとのあいだで「口にされている」ことをはっきりと感ずるのである。そしてまた、われわれは、これらの断片が、おのれを現実化しようとしている書物の何の名前も持たぬ謎めいた足跡を形作っていることを予感する。だがそれは、これらの断片が、それらの出発点だったと思われる現実の生活とも、それらがその接近を形作っている作品とも、何らはっきりした親近関係を持たぬ限りでの話である。こういうわけで、もしわれわれがここで、創造的経験の日記となりうるようなものの予感を抱くとしても(*)、われわれは同時に、この日記が、完成した作品と同じように閉じられており、そういう作品以上にわけへだてられているという証拠をも手に入れるわけだ。なぜなら、秘密の周辺は、秘密それ自体以上に秘められているからである。》(393-394頁)


 ブランショの原註は、「他にもいくつかある」として『マルテの手記』やバタイユの『内的体験』『有罪者』を挙げ、「これらの作品が持つ密やかな法則のひとつは、その運動が深まれば深まるほど、それが抽象作用の非人称性に近付くという点である」と記し、アヴィラの聖女テレサの打明話やマイスター・エックハルトの説教に言及している。実に面白い。
 そのほかプルースト(431-432頁)やノヴァーリス(472頁ほか)に関する文章も引いておきたいが、これらは割愛。


     ※
 1月29日に読み始めてちょうど2週間後の2月12日に読み終えた。時間にして(ほぼページ数に見合う)500分強。
 いったん読み始めたらさいご意味がとれようがとれまいが、内容が理解できようができまいがいっさいこだわらず、とにかく一定の速度をもって期限をさだめひたすら愚直に一気に読み進める。ただただ身をもって言葉の礫をうけとめる。
 そんな読み方でしかその内部の(非人称的な)空間と時間(の外)を経験できない書物はある。
 全行程のほとんどを重く垂れ込める闇に視界を遮られながら、たまたま木漏れ日となって到来した陽光にしばし時を忘れて全身で浸る。そんなことを繰りかえしているうちになんとか最終地点にまでたどりついた。
 何も残っていないが、何かが通りすぎていった。そのたしかな感触はしっかりと記憶のうちに残っている。空虚な充実感とでも言おうか。
 もう一度はじめから読むとまったく別の空間と時間にまよいこむことになるだろう。それはとても蠱惑的な体験だろうが、いまはまだその気になれない。


 そこで語られている書物を手にして実地に読んでみたい。あるいは埃をかぶった書庫から探し出してもう一度読みかえしてみたい。そんな思いを強く読後に残す誘惑の力。それこそ文芸批評の力だと思う。
 ブランショが語る作家や作品の多くが未読もしくは囓りかけのままになっている。数年かけて系統的に読み込んでみたいと切実に思い始めている。まずはリストづくりから。
 『偶然性の問題』『身ぶりと言語』『弓と竪琴』『来るべき書物』と続いた朝の読書・文庫篇。次はル・クレジオの『物質的恍惚』の予定。