デカルト的二元論(2)──「デカルト的二元論」狩り

そもそも『省察』を読むきっかけになったのは、河野哲也『〈心〉はからだの外にある』のデカルト批判に躓いたからだ。
そこでいわれていること、たとえば「「私はある」という命題は発話されなければならず、したがって、その「私」は話す者でなければならない」(48頁)や、「デカルトのコギトは、発話できるという条件、すなわち、発話能力と言語の獲得に依存していた」(頁)、そしてデカルトのいう「自己意識の概念のなかには、ある言語を話すこと[とりわけ「フランス語によって自分の状態について報告できる」ということ:引用者註]をもって自分たちと同種と見なすという特定の社会的・政治的スタンスが込められている」(61頁)といった指摘は、それはそれで別の面白い問題を提起するものだと思う。
(かどうかは実際にやってみないと分からない。
これは余談だが、昔ある人が「言語システムと社会システムはどちらが先なんでしょうね」とつぶやいたのがいまだに心に残っている。
ほんとうにどちらが先なのだろう。
どちらが先かという問いの立てかた自体がおかしくはないのだろうか。
そこに「心的システム」や「物的システム」という第三、第四のものを投げ入れるとどうなるのだろう。)
しかし、デカルト的自己すなわち「知る自己の働きは環境のなかに書き込まれているのであり、透明な幽霊のような心的機能などありえない」(60頁)や、「デカルト的な発想、すなわち、身体的行動やふるまいとは独立の「内的意識」なるもの」(117頁)といったところに顔をだすデカルト批判への違和感はどうしてもぬぐえない。
そのせいかどうか、この魅力的な本をいまだに読み終えらない。
それどころか、「デカルト的発想を覆す」とカバー裏に謳い文句が印刷されている本書の内容全体(「知る自己」に対する「エコロジカルな私」の概念の提唱)を、「デカルト的発想」そのものから導き出すことがきるのではないかとさえ私は思いはじめている(全体を読んでもいないのに)。
そう思うのなら実地にやってみせてくれと言われても困るが。


「知る」ことと「考える」こととは違う…。
「知る」ことつまり認識することは「歩く」ことと同じ次元の話で、それは身体の領分、河野氏が「我思う、ゆえに我あり」に対抗する原理として提示した「私は死ぬ」の領分にかかわることだ…。
それに対してデカルトが「私とはただ考えるもの res cogitans でしかない。言いかえれば精神、すなわち魂、すなわち知性、すなわち理性である」(第二省察山田弘明訳)というときの「精神」は、心身の二分とはいささかの関係も持たない…。
まさしく「透明な幽霊のような心的機能などありえない」のであって、デカルトの「精神」は「心的機能」(それはデカルト的発想では身体の領分、というより心身合一という「原始的概念」の領分に属する)のことではない…。
それ、すなわち「透明な幽霊のような」ものとは死者(死体ではない)のようなもの、あるいは「死者のようなもの」という言葉のうちにその存在の住処が示されているもののことだ…。
なにかの書物、たとえば『聖書』を読んで、それがほんとうにあった出来事かどうかは別として言葉で伝えられた「お話」としてこれを受けとるのと、そこに書かれた言葉のうちにある根源的な経験が立ち上がっていて、それを読むことが「いまここで」その経験のうちに身も心もまきこまれていくことであるものとして受けとるのとではまるで体験の質が違うが、デカルトの「精神」は、つまり「考える」ということはそのような「透明な幽霊のような」ものとなって「お話」を生きることなのだ…。
そもそもそうした意味での言葉が立ち上がる現場に「精神」は住まいしているのであって、それに対して「世界という大きな書物」はまさにアフォーダンス理論そのもので…。


もうやめよう。生煮えの言葉をいくら連ねても混乱するばかりだ。
とにかく、私の悪癖(「デカルト的二元論」狩り)は時と場所を選ばない。


     ※
この悪癖がいつ頃から始まったのかと考えていて、柄谷行人『探究Ⅱ』の文章を思い出した。
これは以前書いた「デカルトが始めたこと」でも冒頭に引用した。


《われわれは、デカルトと、彼とともにはじまるといわれる近代哲学の構え(精神と身体、主観と客観)に対する各種の批判を幾度もきいている。しかし、そのほとんどはデカルトと無縁である。たとえば、精神と身体の二元論などは、デカルト以前からあるだけでなく、日常の思考(言語表現)にある。それをデカルトのせいにするのは的はずれである。というのは、デカルトにとって、その種の二元論を拒否することにこそ「精神」があるからだ。》