デカルト的二元論(1)──ある形而上学的探偵物語

11月3日に書いたことの続き。
「これは誰のわたしなのか。」加藤幹郎氏のこの言葉は、それが使われた前後の文脈を抜きに単独でとりだしてみると、ずいぶん「使い勝手」がいいものになる。
デカルト省察』の二日目にでてくる「私は在る、私は存在する」の「私」とはそもそもいったい誰の「私」なのか、といったぐあいに。
おなじく加藤氏の言葉を借りるならば、以後のデカルト省察は、この問いを傍目にみながら進められる「形而上学探偵物語」である。
ところが『『ブレードランナー』論序説』(13-7-2「宇宙的孤独と宇宙的拡張」)にちょっと困った文章がでてきた。


《少なからぬ批評家たちが冒頭の謎の瞳をロイ以外の人物(ホールデンやレオンやデッカードタイレルなど)に帰してきたが、それはこの映画がどっちつかずの複数の意味を許容しているということではない。そうした複数の別解がありうるのは、この映画が観客を迂路に導く迷宮テクストだからだというよりも、そもそも『ブレードランナー』が自己同一性(単一解答の存在根拠)という概念そのものを疑義にふす映画だからである。さらにこの形而上学探偵物語において、一個の存在者はひとつの時間にひとつの場所にしか存在しないというアリバイ原理そのものが破棄される。この映画全般にわたってロイは大都市の夜景を見ていると同時に、大宇宙の星辰を見つめている。レプリカントが人間になろうとする存在者であるかぎりにおいて、ロイは同時に「こことよそ」に所在する者である。彼は、その瞳に映じていたはずの星辰同様、無限に拡がる者である。古典的ハリウッド映画が登場人物の心理的、時空間的同一性を保守するシステムだとすれば、この瞬間、たしかに『ブレードランナー』はみずから古典的たることにひびを入れている。この映画がポストモダン映画たるとすれば、それはただこの亀裂の瞬間たるをおいてほかにない(「近代[モダン]」の端緒が意識の表象たる「我思う[コギト]」主体と客体とのデカルト的二元論にあるとすれば、この映画のポストモダンたるゆえんは、こうした二元論の終焉にある)。》(162-163頁)


困った文章というのは、引用文の最後にでてくる「意識の表象たる「我思う[コギト]」主体と客体とのデカルト的二元論」という箇所、とりわけ「意識の表象たるコギト」の部分である。
(「意識の表象たる」が「客体」をも形容しているのだとすれば、それはそれでまた別の問題を提起するが。)
「私は在る、私は存在する」の「私」が「意識の表象」にほかならないものであって、そこから心身、主客の二元論が生まれ、あまつさえ近代が始まったなどというお話は、まさにそのようなまことしやかな「お話」をでっちあげるのが近代という時代の正体だったのだというアイロニーとしか受けとることができない。
実地に『省察』を読んだことがある人だったら、とてもそんなことは言えないと思う。
(「デカルト的」二元論であって「デカルトの」二元論ではないという救いはあるが、それにしてもどうしてそれが「デカルト的」なのか。)
こういう文章をみつけたとたんに、『『ブレードランナー』論序説』の全体が児戯に等しい底の浅い議論(括弧付きで「ポストモダン」な?)を延々と繰り出すどうしようもない書物になりかねない。
「これは誰のわたしなのか」やこの問いをめぐる「形而上学探偵物語」でさえ、単なる駄洒落や言葉遊びの境涯に転落してしまいかねない。
これ(「デカルト的二元論」狩り)は私の悪い癖だ。