『ルネ 青白い肌の少年』

これはまだ世にあらわれていない書物の話である。
小林道夫著『デカルト入門』(ちくま新書)を読みながら、『ルネ 青白い肌の少年──あるいは「死せるデカルト」の生涯と思索をめぐるセブン・ストーリーズ』に思いをめぐらせた。
以下、ノートに書きつけたものから精粗バラバラのまま転記しておく。
このほかにも「永遠真理創造説」や「渦動説」等々を素材にしたものをいくつか考えているのだが、それらは続編(『デカルト──可能世界と生きる歓び』とでも?)にまわす。
いつか完成された姿(ボルヘスカフカチェーホフや足穂やらのテイストで綴られた短編小説集!)をあらわす日が来るかもしれないし、ついに訪れないかもしれない。たぶんその日が来ることはない。


1.真空をめぐる対話
 1647年9月23日とその翌日、定住先のオランダからフランスに一時帰国したデカルトパスカルを訪ねた。そのとき「真空」のことが話題になったと後の書簡にしたためている。
 デカルトは真空の存在を認めない。物質とは延長すなわち空間であり、物質は無限に分割される。そのような(物質と一体の)ものとして神は幾何学的空間を創造した(永遠真理創造説)。一方、パスカルは実験によって真空の存在を検証したとされるが、その「厳密な科学実験」はいずれも文学的作品であり思考実験であった(小柳公代パスカルの隠し絵』)。「その早熟な自我によってパスカルは、思考が空虚[真空]すなわち容器のえぐりとられた部分を包みこむということを経験したように思われる。」(ディディエ・アンジュー「パスカルにおける真空の概念の誕生」)
 デカルトパスカルの二日間の対話は「真空」をめぐる実験の話題に始まり、幼年期のこと(母親から空咳と青白い肌を受けついだデカルト、母親の身籠もった腹に空虚化への恐怖を募らせたパスカル)、そして二人が死んだ後の世界のことにまで及ぶ。死者たちの世界(四人称の世界)に住まう二人の対話は、生きている者たちの世界における物質を介して、すなわちそれぞれが書き残した書物を通じて交わされることになるだろう。


2.朝寝をする少年
 デカルトは若死にを宣告された少年だった。「ヨーロッパで最も有名な学校の一つ」ラ・フレーシュ学院でも、病弱なデカルトは特別に個室を与えられ朝寝を許された。この朝寝の習慣は晩年まで、スウェーデン宮殿で朝5時からの進講を余儀なくされるまで続いた。朝の光にくるまれた眠りの中で、少年デカルトはどのような夢を見ていたのだろうか。
 失われた手記『オリンピカ』のなかでデカルトは、「私は一六一九年十一月十日、霊感に満たされ、驚くべき学問の基礎をみいだしつつあったとき」に一晩で三つの夢を次々にみたと記している。最初の夢では亡霊に脅かされ、渦巻きに巻き込まれた。次の夢では電光の一撃に打たれ、我に返ると部屋は閃光に満ちていた。第三の夢には辞書(百科全書)が現われ、ローマの詩人アウソニウスの詩句が登場したという(36-37頁)。
 肺炎で亡くなった1650年2月11日、デカルトが最期に見た夢は?


3.書簡#61
 「非物体的な魂がいかにして身体を動かしうるのか」。エリザベト王女のこの問いかけからデカルトとの文通が始まった。二人の往復書簡で現存するものは60通である。もしデカルトからエリザベトに宛てた61番目の書簡が残存していたとしたら? しかもそれは死せるデカルト、つまり情念から解き放たれた精神によって書かれたもの(身体なき者のための情念論)であったとしたら?
 心身合一は「原始的概念」である。それは形而上学的概念や科学的概念によって知性的に理解できるものではなく、その合体を「身をもって」体得するほかはない(184頁)。デカルトはそう主張した。そうだとすると、身体なき者(死者)にとっての心身合一とは?


4.新年の贈り物
 成年に達したデカルト(生来の空咳と青白い顔色は直っていた)は「世界という大きな書物」に眼を転じ、志願兵として軍事学校に入った。その年、自然学者イサーク・ベークマンと知り合う。彼は「ほとんど独力で自然学と数学とを結合しようという企てを行っていた」(31頁)。このベークマンにデカルトは、新年の贈り物として『音楽提要』を捧げた。
 音楽の目的は快である。われわれのうちにさまざまな情念をひきおこすことである。後の『情念論』につながるこの若書きの書物のうちに、デカルトが仕掛けたものとは? 究極のデカルト・マシン(プレジャー・マシン)の製造法、暗号で語られる神の言葉の解読装置?


5.真理の探究
 デカルトの未完の著作に『真理の探究』がある。おそらくスウェーデン移住後のもので、デカルトにはめずらしく対話形式で書かれていたという。この「私の本質規定」(私は考えるものである)のところで終わった著作の構想は「遠大なもの」であったという(『デカルト入門』88頁)。
 もしこの著作が密かに完成されていたとしたら? 死後のデカルトによって完成させられていたとしたら? しかもそこでデカルト以前以後を問わずだれもが到達できなかった思考の高みと深みに達していたとしたら(なにしろそれは死者による思考なのだから)? 
 デカルトの『世界論』は死後に出版された。ガリレオ裁判の結果を知り、生前の刊行を断念したからであるという。生前書かれた書物の死後における出版ではなく、字義通りの死後出版、すなわち死者によって書かれた書物が出版されたとしたら(死者からの電話のように)?


6.剣術の稽古
 「修行と冒険と諸国遍歴の時期」(12頁)にあったデカルトに二つの武勇伝がある。追いはぎを屈服させたこと。「真理の美に匹敵する美はまったくみあたらない」デュ・ロゼー婦人をめぐる恋敵との決闘。おそらくこの時期、デカルトは後に散逸する論考『剣術』を書いたという(58頁)。その後オランダに隠棲し、「新哲学」思索と著作にふけっていたあいだも剣術の訓練はつづけていたという(184頁)。兵士デカルト小泉義之)ならぬ剣士デカルト。「死を恐れず生を愛すること。」


7.第七省察
 六日間におよぶ「一生に一度」の大事業をなし終えて、デカルトも休息の七日目を迎えたのだろうか。いや『省察』は安息日から始まっっている。「幸いにも今日、私はあらゆる気遣いから心を解き放ち、穏やかな余暇を得てひとり隠れ住んでいるので…」(第一省察)。神の天地創造に対して、デカルトの六日間をなんと名づけるべきだろう。身体の復活? 死からの再生? 臨死体験者の(対外離脱からの)帰還?
 いままた死者となり、永遠に休らうデカルトによってなされた(第四人称による)最後の省察。欺く神、悪霊の立場から「私は無い」という命題にいたる逆しまの万物創造? 精神(魂)の不死ならぬ不在の証明(無からの創造の逆コース)? 祈り(信仰)から呪い(呪術)へ?