考えているのは誰なのか──「四人称世界」をめぐって(その4)

 なにごとかを考えているとき、私は四人称で考えている。つまり死者たちと会話している。
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 死者たちの世界はいまここにある世界と通底している。それは言葉、書物、映像、音楽、その他のメディアを透過して、いまここにある世界に到来する。考えているとき、私は「死んだ後の私」となって四人称の世界に参入している。
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 考えていることと、何者かたとえば社会によって考えさせられていることとは区別ができない。私の脳を使って他者が思考を吹き込んでいることとの区別がつかない。考えさせられている、思考を吹き込まれていると実感するとき、私は壊れている。
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 それでは考えているのは誰なのだろう。それは自然である。自然が考えているのではない、考えていることが自然なのだ。考えていることが存在していることであり、自然とはそのような存在なのである。それをデカルトは神と呼んだ。
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 自然は考える。自然は推論する。自然は観測する。自然は計算する。自然は数学をする。自然は進化する。これらは同じ一つのことを指している。「世界は、神が計算しているあいだに、「できあがってくる」」(ドゥルーズ『差異と反復』333頁)。
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 それにしてもなぜ私は「思考するのは誰なのか」と問うのだろうか。「何なのか」と問わないのはなぜだろう。あるいは次のように問うべきなのだろうか。「これは誰のわたしなのか(Whose I is this?)」(加藤幹郎『『ブレードランナー』論序説』161頁)と。
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 私の思考とその対象とは、より大きな存在のふたつの異なるあらわれである。「われわれが何かを理解しようと試みるとき──何かを探求しようとするとき──、そこには必ず、探求の対象自体が、われわれが使用する論理と多少の相違はあっても、基本的には同一の論理に従っているという想定が前提されている」(パース『連続性の哲学』254頁、岩波文庫)。
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 私の思考はより大きなものの思考の一部としてある。「デカルトにおいては、「愛」とは、自分がその一部であると考えられる全体に対してみずからの意志で合体しようとすることだと考えられる」(小林道夫デカルト入門』191頁)。
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 ベルクソンは存在を三つに分割した。「実際、何も存在しないことがありうる、ということを暗黙のうちにも認めないようにするならば、何かが──物質、精神、神が──存在することに、誰も決して驚いたりはしないだろう」(『記憶と生』「12 さまざまな偽の問題の批判」、『思想と動くもの』)。
 神についてベルクソンは「神々を生みだす機械という宇宙の本質的な機能」(『道徳と宗教の二源泉』)という言葉を残している。「エラン・ヴィタールが神々へとつながるとき、それはエラン・ダムール(愛のエラン)と呼ばれるだろう」(篠原資明『ベルクソン』133頁)。
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 またベルクソンは「完全な神秘主義とは、行動であり、創造であり、愛でなくてはなるまい」(『道徳と宗教の二源泉』)という言葉を残している。「ベルクソンの語る神秘家とは、なによりも行動の人なのである」(『ベルクソン』132頁)。
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 デカルトはなによりも行動の人であった。考える「「わたし」とは、行為のなかにしかない」(渡仲幸利『新しいデカルト』185頁)。
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 考えているのは私の身体である。そんなことはわかりきっている。なぜなら脳は身体なのだから。私の身体が考えているのではない。考えていること、すなわち行動していることのうちに身体が存在するのである。
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 私は歩く。歩行することにおいて私は考えている。「歩くことは、しあわせになるための第一歩なのである」(『新しいデカルト』235頁)。
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 四人称で考えること。世界という大きな書物を朗読すること。ベルクソンは『思想と動くもの』の「序論」で次のように述べている。「いま規定したような読書法[リズムに配慮した朗読法]と、哲学者にすすめる直観とのあいだには、一種の類比がある。直観は、世界という大きな書物から選んだ頁のなかに、創作の動きとリズムを見出し、共感によって身を置き入れることで、創造的進化を生きなおそうとするだろう」。
 四人称で考えること。創造的進化を生きなおすこと。篠原氏はベルクソンの引用につづけて次のように書いている。「だからこそ、哲学的著作においても、リズムの重要性は基本的に変わらない。実際に、コレージュ・ド・フランスの講義において、自らデカルトの『方法叙説』を朗読しつつ、リズムから思考をたどり直してみせたことを、ベルクソンは同じ「序論」の註にしるしている。」(『ベルクソン』142頁)。
 四人称で考えること。リズムから思考をたどり直すこと。剣術の稽古をつづけること。
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 こうして私の思考のうちに他者の言葉が浸透していく。むしろ他者の言葉、死者たちの語らいが私の思考である。私が他者(死者たち)の著書と深く交わるとき、その書物は私の著書になる。それが四人称で考えるということにほかならない。