これは誰のわたしなのか──「四人称世界」をめぐって(その3)

「透過体──ジャン=リュック・ゴダール『映画史』」(鈴木一誌『画面の誕生』)の7節「モアレ」からの切り取り。


◎連続映像は、滲みの集積なのだ。映画においてあらゆるものは動いている。動かないレーニンの死体も、送られつづけるフィルムが明暗を維持し、その暗部では乳剤や傷が乱舞しているのが見える。
 だが、コマ間の差分が感知されるからといって、減算されて差異のみが抽出されるわけではない。透過体として見られる二枚のコマは一枚に溶けあうのではなく、二枚のまま近づき遠ざかる。コマが重なり、その重なりを映像的な肉体としながら、重なりきらない滲みが運動を湧出させる。


モンタージュも、ちがったものが透過され、滲みが感知されることの一環であるだろう。落差が連続的には繋がらないとき、視線はモンタージュを受けいれようと身がまえる。コマとコマが連続することが予定調和として約束されているだけならば、観客はモンタージュ効果に乗りながら映画とともに走ってはいけないだろう。『映画史』は、透過体であることで、映画の歴史を現前させるとともに、ひとコマのできごとを、四時間を超える長さに延長させて見せている。


私はかつて「伝導体」という語彙でもって映画や文学をめぐる体験のことを考えたことがある(「キルケゴールの伝導体」、『ポリロゴス2』所収)。
この「概念」をふるいにかけて精錬し「透過体」と重ねあわせていけば、もしかすると「四人称世界論序説」なるものを仕立てあげることができるかもしれない。


     ※
もう一冊の映画本、加藤幹郎『『ブレードランナー』論序説』(13-7-1「超時間的存在」)からの切り出し。


「突如、巨大な眼の超クローズアップがあらわれる。その丸い碧[あお]い瞳には直前のショットの映像内容(夜空を焦がす炎と街の灯)らしきものが映っている。(略)ということは、ここで天下を睥睨する特権をもったなんらかの主人公が導入されたはずである。」(7-8頁)
その「主人公」が誰であるか、すなわち「これは誰の眼なのか」(Whose eye is this?)は、ブレードランナーデッカードレプリカント・ロイの対決の後で明かされる。
ロイはデッカードに向かって「わたしは[この眼で]おまえたち人間が信じられないようなものを見てきた」と語りかける。
「このときクローズアップでとらえられたロイの瞳が碧いことは、もはや誰の眼にも明らかである。」(160頁)


◎しかしながら、この問い[これは誰の眼なのか]がこの映画の短くない上映時間の内に、もうひとつ別の問い「これは誰のわたしなのか」(Whose I is this?)へと鋳直されていたことは、人間論的物語に鋭敏な観客の眼にはすでに明らかなことであろう。


それでは、いまやロイのものであることが明らかとなった、映画冒頭で超クローズアップによって切り取られていたあの「碧い瞳」はいったい何を見ていたのか。
「その瞳がみつめてていたものは、ロサンジェルスの夜景というよりも、大宇宙そのものではなかったか。」(161頁)


◎そのような解釈が受け容れられる余地は古典的ハリウッド映画たる『ブレードランナー』にはほとんどないだろう。にもかかわらず、それはやはり比喩的にはありうることである。なぜなら「謎」の碧い瞳があらわれるとき、その瞳の主は映画のどこにも位置づけられて(主体化されて)いなかったからである。それゆえそれはどこにでも位置づけうるものとなる。映画は、そのミディアムとしての特権を、つねにこの主体ポジショニングの遍在生と超時間性にもってきた。テクストの自己展開、映画の運動と情動のプロセスとは結局のところ、そうした迂回以外のなにものでもないだろう。


◎そのときあの碧い瞳は三つの時制にまたがる超時間的存在となりおおせていた。その瞳は、それがあらわれた時点における過去のある瞬間(ロイが「大宇宙の星座の片隅で爆発炎上する宇宙船」を見た瞬間)へのフラッシュバックであり、同時に、現在の瞬間(地球に降り立ったロイがロサンジェルスの冥府的夜景を見た瞬間)の描出であり、さらにこの最期の瞬間(ロイが永遠に眼を閉じるまえに「わたしは[この眼で]おまえたち人間が信じられないようなものを見てきた」と語る瞬間)へのフラッシュフォワードでもある。