2006-01-01から1年間の記事一覧
あれから二週間すぎて、とっくに風邪は治ったものの、あいかわらず低調な日々がつづいている。 興奮して読み終え、書評めいたものを書いてきっちり「縮約」しておこうと心に誓ったまま放置している本がじわじわと増えている。鬱陶しい。読みながらいろいろと…
ここ二週間、風邪が治らない。治ったと思ったら、その日のうちにまた体調がおかしくなって、新しい風邪をしょいこむ。そんなことの繰り返しが、春先までつづくのではないかと、もうあきらめかけている。幸い熱は出ない。だから日々の生活をしのぐ最低限の気…
前々回(11月18日)、自分専用の三位一体の図を考えていると書いた。 それは「デカルト=ベルクソン」と「歌論=ギリシャ悲劇」と「金融=貨幣」の三つの柱でできているとも書いた。 その後このアイデアがどんどん熟成していった、というようなことはまるで…
昨日、小雨まじりの京都紫野にでかけ、大徳寺に数ある塔頭のひとつ黄梅院を訪れた。 特別公開最終日、靴下だけの足下からひたひたと浸透してくる冷気を気にしながら、本堂室中の雲谷等顔筆襖絵「竹林七賢図」や大徳寺開祖大燈国師の遺墨を扁額に懸けた「自休…
堀田善衛の『定家明月記私抄』正続二篇を買い求めたちょうど同じ日に、中沢新一『三位一体モデル TRINITY』(ほぼ日ブックス)を購入した。 中沢新一の聖霊論、三位一体論は『東方的』(1991)や『はじまりのレーニン』(1994)あたりからその姿を世にあらわ…
デカルト談義はちょっと休憩。 先日、夢のなかで藤原定家の『明月記』が出てきた。 『明月記』が出てきたとはおかしな言い方だが、この高名な、しかしこれまで見向きもしなかった書物をいちど読んでみたいとか読まねばならないといった思い、というのではな…
そもそも『省察』を読むきっかけになったのは、河野哲也『〈心〉はからだの外にある』のデカルト批判に躓いたからだ。 そこでいわれていること、たとえば「「私はある」という命題は発話されなければならず、したがって、その「私」は話す者でなければならな…
11月3日に書いたことの続き。 「これは誰のわたしなのか。」加藤幹郎氏のこの言葉は、それが使われた前後の文脈を抜きに単独でとりだしてみると、ずいぶん「使い勝手」がいいものになる。 デカルト『省察』の二日目にでてくる「私は在る、私は存在する」…
これはまだ世にあらわれていない書物の話である。 小林道夫著『デカルト入門』(ちくま新書)を読みながら、『ルネ 青白い肌の少年──あるいは「死せるデカルト」の生涯と思索をめぐるセブン・ストーリーズ』に思いをめぐらせた。 以下、ノートに書きつけたも…
なにごとかを考えているとき、私は四人称で考えている。つまり死者たちと会話している。 ※ 死者たちの世界はいまここにある世界と通底している。それは言葉、書物、映像、音楽、その他のメディアを透過して、いまここにある世界に到来する。考えているとき、…
「透過体──ジャン=リュック・ゴダール『映画史』」(鈴木一誌『画面の誕生』)の7節「モアレ」からの切り取り。 ◎連続映像は、滲みの集積なのだ。映画においてあらゆるものは動いている。動かないレーニンの死体も、送られつづけるフィルムが明暗を維持し…
鈴木一誌の『画面の誕生』を机上に常備している。 一節ずつ、毎日読みつづけている。それ以上は読まないことにしている。 この書物を読み終えてしまう日が来るのをなるべく先延ばしするために。 一昨日、『小説の誕生』の6章を読んだちょうどその日、ゴダー…
最近、死をめぐる話題が私の脳髄をとりまいている。 死の問題というよりは、不死性や死者の記憶(遺族の中に生きている死者の記憶のことではなく、文字通りの意味での死者がもつ記憶)の問題というべきかもしれない。 『エロコト』の対談で、中沢新一は「人…
最初に浮かんだのが「二人称の科学」というタイトルだった。 この書物は会話体で構成されているし、その内容からみてもこれがぴったりだと思ってずっと頭の中で温めていたら、『生命と現実──木村敏との対話』(河出書房新社)に収められた檜垣立哉氏の木村敏…
もう少しだけこの話題を続ける。 この話題というのは、『新しいデカルト』(渡仲幸利)の「情念論」をとりあげた個所に出てくる文章──「デカルトは、こうして、精神を自分に確保しておいて、情念を、その本来の持ち場へ送りかえした。情念は、物の秩序へと投…
「ロボットにも情念をもたせうる」。 渡仲氏のこの一文を読んで、ブレードランナー・デッカード(ハリソン・フォード)とレプリカント・レイチェル(ショーン・ヤング)の「密会=性愛」のシーンを想起した(ベタだが)。 この「感情移入[エンパシー]テス…
「ロボットにも情念をもたせうる」。 デカルトの思考に立脚したこの渡仲幸利氏の省察をテコに、つぎに取りあげようと思っていたのは、性愛をめぐる機械・器具(プレジャー・マシンとでも?)のことだった。 文章は大筋を書いているので、あとは修復整理を施…
渡仲幸利氏が『新しいデカルト』の「情念論」をとりあげた章で、「懐疑とは、脱ぐということだ。そして最後に「わたし」の底力が立ち現れる」(50頁)と書いている。 以下はきわめて真面目な話なのだが、脱ぐとはいうまでもなく衣服を脱いで裸になることだ。…
京都にでかけて『若冲と江戸絵画展』を見てきた。 『ブルータス』(8月15日号)の特集「若冲を見たか?」をためつすがめつ眺めてイマジネーションをかきたててきたのが、今日、ようやく実物に出会えた。 感無量といいたいところだが、美術作品を鑑賞したあ…
前回、「第二省察」の前半に出てくる「私は在る、私は存在する」という命題のなかの「私」はいわゆる「デカルト的自己」のことではない、と書いた。 少なくとも、省察のこの段階でその存在が見出された「私」は、河野哲也さんが『〈心〉はからだの外にある』…
河野氏が『〈心〉はからだの外にある』の第一章で引用していた「「私はある、私は存在する」というこの命題は、私がこれをいいあらわすたびごとに、あるいは精神によってとらえるたびごとに、必然的に真である」は、六日間におよぶ『省察』の二日目、「第二…
デカルトの『省察』を読んでいる。 今年の3月にちくま学芸文庫から出た新訳(山田弘明)で、この古典はなんとなく読んだ気になっていた(実は拾い読みしかしていない)ので、買ったきりで放置していた。 にわかに読み始めることにしたのは、「一人称による…
どうしても、この話題(「残光型記憶の存在様式=もうひとつの記憶のかたち」をめぐる)から離れられない。 以下に前回書き残したことの箇条書きや論証説明抜きの覚書を連ねて、一応の「決着」をつけておく。 ◎残響型記憶は肯定的世界観につながる。たとえば…
何を書いているのか(誰が考えているのか)自分でもよく判らないままに書き(考え)つづけていると、ずいぶん居心地の悪い思いがつのってくる。 でも、始めてしまったものは今さら後にひけない。もう少しつづけてみる。 昨日、最後に『羽生』から引用した文…
『残光』の後半、第二章から第三章にかけて、小島信夫自身による小島作品の引用につぐ引用が延々とつづく。 何十年も前に原稿を編集者に渡したきり一度も読み返したことがなかった作品、そういう意味では初めて読んだも同様の作品からの作者自身による引用。…
先週、小島信夫の『残光』を読み、今週、保坂和志の『途方に暮れて、人生論』を読んだ。 『残光』が出たのが5月、『途方』が4月で、買ったきりしばらく放置したままになっていた。 この春先から初夏にかけて、買ったまま放置している本はかなりたまってい…
あたかも「息をするように」(211頁)読み継ぎ、読み終えた。 ときには細く、長く息を継ぎ、ときには切迫し、息を詰め、そして最後は大きく深い息を吐きながら。 実によくできた書物だった。 巻頭から巻末に至るすべての頁をいろどる活字と図版と空白、それ…
一昨日から夏休みをとっている。つごう5連休で、今日が中日。 連休の初日の夜に岡山の湯原温泉で美作牛をしゃぶしゃぶとステーキで食べて、もちろん温泉にも三度ゆっくりつかって、翌日、蒜山高原を車でのんびりうろうろして、150円で買ったペットボトル…
金曜の夜、ひさしぶりの衝動買いでアダム・ファウアー『数学的にありえない』上下(矢口誠訳,文藝春秋)を購入し、これも随分ひさしぶりの一気読みで土曜一日をしっかりと棒にふった。 「徹夜必至の超高速超絶サスペンス!」とか「ここに前代未聞のアイデア…
《本書でわたしは、能で言う「諸国一見の僧」のように、各所・各人を訪ね、その場と人の声音を聴き取り、その奏でる言葉によるたましいの鎮まりと賦活を試みようとした。観阿弥や世阿弥や元雅が編み出した新しい身魂[みたま]の作法とは異なる、地霊の呼び…