もうひとつの記憶のかたち──『途方に暮れて、人生論』ほか(1)

先週、小島信夫の『残光』を読み、今週、保坂和志の『途方に暮れて、人生論』を読んだ。
『残光』が出たのが5月、『途方』が4月で、買ったきりしばらく放置したままになっていた。
この春先から初夏にかけて、買ったまま放置している本はかなりたまっていて、それに3月末頃までに読み切れずこれまた放置している本がたくさんあって、ずっと気になっていた。
あまり関係ないと思うが、夏も終わりを迎えたのでそろそろ本箱の衣替えのための棚卸をしなければいけない。
まずは読みやすそうなものからと思って『残光』と『途方』の二冊を手にしたら、どちらも読みはじめるとすぐツボにはまり、いったんツボにはまると最後まで止まらなくなった。
最後まで止まらなくなったものの、いざ最後まで読み終わってみると、なにが書かれていたか記憶がたちまち曖昧になる。
読中、読後の感触が朦朧としてくる。
もう少し時間が経つと、きれいさっぱり忘れてしまうだろうと思う。
きれいさっぱり忘れてしまう、とはいくらなんでも誇張がすぎるが、たとえば『残光』についていうならば、何年経ってもそこに書かれていた素材のいくつかは覚えているだろうけれども、それが全体の流れのなかでどのように綴られ、他の素材とどのように織り合わせられていたかを思い出すことはほぼ完璧に不可能だろう(ちょうど、一度や二度聴いただけでは長い交響曲を記憶できないように)と、これは確信をもっていえる。
『途方に暮れて、人生論』の方は逆に、保坂和志の文体というか文章のどこか奇妙で独特なつながり方、息遣い、感触のようなものは結構鮮明に覚えているような気がするけれども、それを再現することはまず無理で、そこで扱われていた議論の素材や組み立てを復元することはほぼ完璧に不可能だろうと、これも確信をもっていえそうな気がするが、これもまたかなり誇張した表現になっている。


     ※
『途方に暮れて、人生論』に「私が老人を尊敬する理由」という短い文章が収められていて、それは次のような話題からはじまる。
小島信夫が『文藝春秋』のグラビア・ページ「日本の顔」に載ることになった。
小島信夫から保坂和志に「一緒にそのページに写ってくれないか」と電話がかかってきた。
「あ、保坂さん。ちょっとお願いがあるんですけどねえ、『文藝春秋』に毎月、年寄りの写真を撮って載せるページがあるでしょ。」
功なり名を遂げた人なら誰もが載りたいと思っているであろう「日本の顔」をただ「年寄りの写真」と言えてしまう老人力
いや、私(保坂)は「老人力」の笑い話を書きたいわけではない。
もっとまじめに「老い」について書こうとしているのだ。
そこから先、エッセイは保坂式の迂回路をくねくねとたどって、次のような決め言葉で結ばれる(わけではなくて、本当はもう少し話題がつづく)。


《人間、年をとると、おせっかいで口うるさくなって、保守的で穏当なことしか若い人に言わなくなるものだが、人間にはそれぞれの壮年期に、時にアナーキーとも言える固有のパワーがあった。私自身には子どもがいないけれど、姪と甥はいる。あの子たちも、おじいちゃん・おばあちゃんのことを今の姿からしか判断していないだろう。しかし、
「おじいちゃん・おばあちゃんは、たいした人だったんだよ。あんたたちなんか、全然負けているよ。」
 と教えてやりたい。……いや、そんなことより、老人に垣間見られる断片から壮年期のパワーを再現する方法というか推察力を作り出すことが、小説家としての私の仕事なのではないかと思う。》(95-96頁)


以下、「古老」は「裏返しのヒーロー」にすぎず、「おばあちゃんの知恵」もまた技能の有無や優劣で人を判断する社会の中の価値観にすぎない。人間は部分=技能の集積ではない。
パワーは個々の技能のことではない。もっと「反社会的(アナーキー)」なものだ。人はみなそれぞれの中にあるパワーをなんとか飼い慣らし、それを効率優先の社会の中での社会性に変形していく。老人とはそういう力の社会から退いた人のことだ。社会が老人に対してなすべきことは、「老人として、どういう役割があるか」を考えることではなく、その人が最盛期に持っていたパワーに対して敬意を持つことだ。そういう敬意さえあれば老人は安心して老人力を揮っていられる……と議論はつづく。


『途方』に収録された26篇の「人生論」のなかで、それほど「重要」なものとは思えないこのエッセイを取り上げたのにはわけがある。
それは一つには、ここで話題になっている「日本の顔」の写真のことが『残光』でもリアルタイムで綴られていて、先週、今週とつづけて読んだ二冊の本をつなぐのにちょうどいい蝶番になると思ったからだ。
でも、これはあまり本質的な理由ではない。
むしろ(実はこれは上の抜き書きをしながら考えついたことなのだが)、「私が老人を尊敬する理由」という一文は『途方に暮れて、人生論』の全体を要約、ではなくて「縮約」しているのではないかと思ったからだ。
それはなにも「効率優先の社会」という、このエッセイ集の表面と裏面を流れる「テーマ」にかかわるキーワードがそこに出てくるからだけではない。
また、老人がかつて持っていた「固有のパワー」と、エッセイ集の中間あたりに出てくる「土地」や「自然」、そして最後の方で話題になっている「文化、教養」の力とがどこかで響きあっている(ように思える)からだけでもない。
あるいは、エッセイ集の最初の方に出てくる「生まれる時代を間違った」女性の生き方もしくは「生きにくさ」が(時空を超えた?)「老人力」によって救われる(ように思える)からだけでもない。
それらのすべてを合わせたよりもっとずっと大切なことは、ここで保坂和志が「老人に垣間見られる断片から壮年期のパワーを再現する方法というか推察力を作り出すことが、小説家としての私の仕事なのではないかと思う」と書いているところだ。
これはたぶん通りすがりについ筆がすべって書かれたものではないかと思う。
ここだけではなくて、保坂和志のエッセイには、随所にこれと似た一見無責任な決め言葉が出てくるので心底信用できない。
無責任というのは、それらが一見文章の流れの中で、その場の思いつきとして書かれたとしか思えないからそういうのだ。
しかし、すでに書かれた文章は書かれてしまった時点で作者の手元を離れ独り立ちして、自らの帰属先の責任を追及する。
生身の保坂和志をではなくて、小説家・保坂和志の責任を。
その出自はたとえ一見いかがわしく無責任なものであったとしても、それがすでに書かれ世に出たという当の事実が遡って小説家の責任を構成する。
作品が生まれ出る時間そのものを仮構する。
こうして「老人に垣間見られる断片から壮年期のパワーを再現する方法というか推察力を作り出すこと」こそ小説家、つまり小説を通じた思考者としての保坂和志のこれまでの仕事の実質であり、現にそうであり、これからもそうありつづけるのだということになる。
「老人」とか「断片」とか「壮年期のパワー」とか「再現」とか、そこで使われた語彙の意義をちゃんと確定しておく必要はあるにしても、これは保坂和志による保坂和志論の言葉になっている。


     ※
上に書いたことは、それこそ文章の流れの中でその場の思いつきとして書いたもので、自分自身でも心底信用できない。
第一、何が言いたいのかよく判らない。
それでも懲りずに思いついたことをさらに書き連ねておくと、「老人に垣間見られる断片から壮年期のパワーを再現する」というのは、『残光』という小説作品に対する批評の言葉にもなっている。
『残光』を書いている小島信夫は眼がよく見えず、活字を読むことに難渋する。
だから、『残光』という作品の中で自分が書いていることさえよく覚えていない。
「これから、時々、その名が出てくるかもしれない、山崎勉さんという人は、英文学者で、たいへん魅力的な声をしている。」
第一章の冒頭はそのように始まる。ところが第二章に入ると、こんな文章が出てくる。


《この人は前にいったかもしれないが、山崎勉さんという人で、本を読むとき、ぼくはこの通り眼が見えにくく、この原稿を書くにも手さぐりでやっている始末で、本を読んでも部分を辿ることしかできず書いた原稿は書くには書けても、読むことはむずかしいので、山崎さんにいっしょに読んでもらっているし、いろいろと意見をうかがっている。(これからも、しばしば登場するが、宜しく頼みます)いま書いている原稿にしても、相談をしている。山崎さんは、「新潮」連載のこんど本になった保坂さんの『小説の自由』を、最初からずっといっしょに読んでもらっている人で、彼は前にも述べたと思うが、雑誌が出ると、わざわざ買いに出かけている。》(89頁)


山崎勉という人は「たいへん魅力的な声をしている」。
そうか、『残光』は眼がよく見えない(光がほとんど残っていない)世界を描いていたのか。
保坂和志の『残響』とは別のかたちの(つまり空間的乖離や物質的形象、表情や身体的所作を介したそれではないかたちでの?)記憶のつながり(記憶の「唱和」とか「ポリフォニー的つながり」といってもいい)をテーマにしていたのか。
ここで唐突にそう思いついた。
もちろん、ここでいう「記憶」の語義をしっかりと確定しておかないといけないが。
そういえば、『残光』の末尾、施設に入所している認知症の妻を訪ねたときの夫婦の会話で、二人の記憶は果たしてつながったのか。
妻はそのとき、眼を開けていたのか閉じていたのか。


《十月に訪ねたときは、横臥していた。眠っていて、目をさまさなかった。くりかえし、「ノブオさんだよ、ノブオさんが、やってきたんだよ。アナタはアイコさんだね。アイコさん、ノブオさんが来たんだよ。コジマ・ノブオさんですよ」
 と何度も話しかけていると、眼を開いて、穏やかに微笑〔えみ〕を浮かべて、
「お久しぶり」
 といった。眼はあけていなかった。》(240頁)