もうひとつの記憶のかたち──『残光』ほか(2)

『残光』の後半、第二章から第三章にかけて、小島信夫自身による小島作品の引用につぐ引用が延々とつづく。
何十年も前に原稿を編集者に渡したきり一度も読み返したことがなかった作品、そういう意味では初めて読んだも同様の作品からの作者自身による引用。
それがなんとも面白いのである。本書の最大の読み所になっている。
読み所といえば、これは作品の最初から出てくるのだが、間接話法で引用される他人の発言の中に筆者(小島)の発言が引用され、その筆者の発言の中にまた別の人の発言が引用される、たとえばそういったかたちで入れ子式に引用が重なっていって、いったい誰が誰に向かって何を語っているのか、そもそも主語はいったい誰なんだ! と読んでいて混乱する個所がしばしばある。
また、認知症の妻との散歩とか保坂和志とのトークのこととか、その他諸々の話題が頻繁に途切れてはまたつながり、過去のことと現在のことが自在につながる語法が、生身の小島信夫と小説家・小島信夫との境、人称と時制の区分等々を曖昧にし、いったい誰がこの小説を書いているんだ! としばしば困惑させられる。
それらの混乱や困惑はすべて、これは誰のつくった作品だったか今となってはわからない一篇の音楽作品のようなものだと思って読めば、いやそんな趣向をこらさずとも、ただそれだけで充分に面白く、いま私は小説以外のなにものでもない異様な文章を読んでいるのだというずっしりとした実感に充たされるのだが、それらにも増して、後半の引用につぐ引用は面白い。
その面白さはもちろん、そこに抜書きされた作品の「断片」そのもの、文章そのものの面白さによるところが大きい。
そこに何が書かれているかではなくてどのように書かれているか(それを文体というなら文体なのだろう)、内田樹ラカン流の「子どもの問い」、つまりそれを書くことによって作者(小島信夫)はほんとうは何が言いたかったのか、そこに書かれていること以上のことやそこに秘められた作者の欲望とは何か、といったことが問題なのではなくて、ただそれが書かれているときの純粋な運動のようなものがそこに立ち上がっているから(かつての小島信夫の「固有のパワー」のようなものが垣間見られるからといってもいい)面白いのだ。
あるいは、それを読んでいるときにだけ立ち上がる純粋文章とでもいおうか。
保坂和志小島信夫とのトークの前日、『寓話』と『菅野満子の手紙』をあらためて読んできたのだが、これらの作品がどう終わっていたか、最初はどういうふうに始まったか、途中はどんなことが書いてあったか、「全くワスレテしまっている!」(108頁)。
そういうかたちで、つまり完璧な忘却という(記憶のもうひとつの)かたちをとってしか記憶できない文章。
ただそれが現前しているときにしか立ち上がらない、帰属すべき(責任)主体をもたない記憶。


     ※
『残光』の第三章に、『各務原・名古屋・国立』からの引用と思われる(たしかに本文にそう書いてあるし該当頁数まで表示してあるが、実地に確認しないとどうも信用できない)老作家と若い人との会話が出てくる。
長いが、まるごと孫引きしておく。


《「脳のことは、まだよく分っていないのですよ。たいていの「学者よりは、まだぼくの方がいいところをついていますよ。もっとも何だって、普通の専門家というものは、バカですけどね」
「それは、たしかに〈専門バカ〉というからね」
 老作家はこういう会話のやりとりがしたいのではなくて、何かタメになることをきき出したいというのが主要な目的である。その目的というのは、アイコさんの記憶のことである。この若い人には『季節の記憶』という小説があり、さっきあげた『小説修行』のなかでは記憶というものは、その人の頭の中にあるというよりも、ぼくはそのまわりの世界にある。あるいは響き合って残っている。その人が死んでも、その人の頭の中にある記憶に当るものは残り、ぼくはそうした記憶の中で渡り歩いている。その人の頭の中にあった記憶は、たとえばその人の住んでいた家の窓とかタタミとか家具に残っているというか、それらにひびきあっている。たとえば『嵐が丘』の作者の育った牧師館を見た人は、いかにも作者やその姉妹、兄貴などがそこにいたということが、「なるほど、なるほど」といったぐあいに分る。
 だから無名作家のまま死んでしまうことを残念に思い「おれの人生は何であったか」なんてくやしがることはない。生前有名であったりそうでなかったりしたって、それはあとに残る。つまり、その人が生まれてくる前から世界はあり、死んでからも世界はありつづける。こんなことは当り前のことだと、いう人はあるかもしれないが、このぼくがつい最近になって、そうだと思ったのだ。》(230-231頁)


この最後に出てくる「ぼく」とは、老作家のことか若い人のことか。
そもそも引用文の最初の「ぼく」を受ける述語が拡散している。つくづく不思議な文章だ。
それを見たとおり(それを見たときの体感のようなものを含めて)正確に夢を記録した夢日記があるとしたら、それはたぶんこのような文章で綴られていることだろう。
夢を「見る」という以上、そこには夢の中の視覚を成り立たせる光がたちこめていたはずだ。
その光がかすかに残っているうちに、あるいは忘却の深い淵にしずんでいくその刹那、弱々しい(あるいはかつての「固有のパワー」を最後の最後にいまひとたび発現させた)残光の一刷毛でもってさっと記された文章。
「残響」として残る記憶ではなくて、「残光」なくしては立ち上がらない忘却。


     ※
『途方に暮れて、人生論』に「家に記憶はあるか?」という文章が収められている。
以下に、その一節を抜書きしておく。


《昔の人は「この家には苦しんで死んでいった先祖の霊が住みついている」とか「この庭には一種、霊気が漂う」なんて言い方をしたわけだけど、“先祖の霊”だとか“霊気”だとか、そんなものはない。それらは“賢者の石”と同じ発想であって、形のあるものがイメージされている。(略)
 しかしカエルの記憶には形がない。「形がない」というのは、言葉として簡単に指し示せる形がないということであると同時に、空間的にも「ここ」と簡単に指し示せる形がないということでもある。
 私たちは名詞に対しては素早く反応ができて、イメージも明確に持てるけれども、物の様態や変化となると格段に反応が曖昧になる。同じように、空間の中にある特定の“物”に対しては言葉で指し示すことが得意だけれど、“空間全体”となるといきなり曖昧で情緒的な言葉になってしまう。しかし空間の中の“物”が客観的な存在であるのと同じく、“空間全体”も客観的な存在だ。
 反復という行為それ自体の中にある“何か”というのを“空間全体”と考えて、“霊”を空間の中にある特定の“物”という風に考えてみると、だいぶ整理されて考えが前に進むのではないか。“空間全体”を見なければわからないところの“何か”をうまく指し示すことができなかったから、それを便宜的に“霊”と呼んだのではないか? ということだ。》(140-141頁)


文中に出てくる「カエルの記憶」というのはこういうことだ。
カエルは産卵のときに必ず自分が産まれた水場に戻る。
その場所までカエルを導いてくれるものは、嗅覚とか皮膚感覚とかではなくて、記憶によるのだということを実験によって確かめた人がいる。
そこで保坂和志は考えた。来た道を逆に辿りなおすカエルの記憶が、人間が知っている記憶の形態と同じであるはずがない。
また、後半に出てくる「反復」という言葉については、その直前で次のように書かれている。


野村萬斎は四歳ぐらいから狂言の所作を徹底して身につけていったわけだけれど、狂言という芸術表現の中身が守られるのは具体的な動きや発声であって理論ではない。反復によって身体に染み込んだ動きや声が、狂言においてはそのまま内容なのだ。
 人間は反復によって“何か”を理解するようにできている。ただ反復によってしか理解できないことがあり、それが一人だけでなく複数の人間に共有され、さらに時代をまたがって共有されたりもするのであれば、反復という行為それ自体の中に“何か”があると考えるべきで、その“何か”を人間化して言うと“記憶”という言葉になるはずだ。旧家とはそういう“場”だ。その家に代々暮らした人たちが同じタイプの考え方や物の見方をしているなら、それはただそこに暮らしている個人が考えているのではなくて、家によってそう考えるように仕向けられていると言えるのではないか。》(140頁)


記憶の容器としての小説。
それは身体や旧家といった目に見える容れ物よりは、むしろ音楽に近い。
『途方に暮れて、人生論』の最後に、主として音楽家の発言や文章をコレクションした「数々の言葉」が収められている。
それらはいずれも刺激に満ちていて、かつ美しい。
さまざまな(残響型の?)記憶のかたちがそこに語られている。


     ※
保坂和志は『羽生──21世紀の将棋』(朝日出版社:1997)の中で、次のように書いていた。
そこにもまた(残響型の?)記憶のかたちが表現されている。


《人は将棋を指しているのではなくて将棋に指されている。一局の将棋とは、その将棋がある時点から固有に持った運動や法則の実現として存在するものであって、将棋の工夫とはそういった運動や法則を素直に実現させるものでなければならないし、そのような指し方に近い指し方のできたものが勝つはずだ(結論の出ないゲームとはそういう風にできている。運動・法則というのが、人間にとって一番捉えがたいものなのだから)。
 将棋とは個人の欲望や執念の産物でもなければ、個人の人生の比喩でもない。将棋というゲームの奥行き、広がりは、個人の人生よりもはるかに大きい。もし将棋が個人の欲望や人生の比喩程度のものであったら、とっくに必勝法が作られていただろう。
 したがって、将棋は棋風という個人のスタイルを持つのではなくて、スタイルを乗り越えて、持てるものすべてを没入して、将棋の法則を見つけ出そうとする必要がある。》(13-14頁)