もうひとつの記憶のかたち──残光と残響(3)

何を書いているのか(誰が考えているのか)自分でもよく判らないままに書き(考え)つづけていると、ずいぶん居心地の悪い思いがつのってくる。
でも、始めてしまったものは今さら後にひけない。もう少しつづけてみる。


昨日、最後に『羽生』から引用した文章の中で、保坂和志は「将棋というゲームの奥行き、広がりは、個人の人生よりもはるかに大きい」と書いていた。
実をいうと、この一文を引用したいがために前後をまとめて抜き書きした。
それにしてもなぜあのときこの一文が頭の中に浮かび、そしてそのとき何を考えていたのか。
たった一日経っただけなのに、そんな大切なことをもう忘れてしまっている。
それほど微妙な問題を考えていたのだといえばきこえはいいが、そういうことではない。
もしかすると「将棋」を「小説」に置き換えて、「人は小説を書いて(読んで)いるのではなく小説に書かれて(読まれて)いる」と読み替えたり、「一篇の小説とは、その小説がある時点から固有に持った運動や法則の実現として存在するものであって、小説の工夫とはそういった運動や法則を素直に実現させるものでなければならない」と解読してみたかったのかもしれない。
そうだとすると、まず保坂和志が「家に記憶はあるか?」の中で定義している「反復によって複数の人間に共有される“何か”=“空間全体”」とそれを人間化した「“記憶”=“霊”」というアイデアに触発されて「記憶の容器としての小説」という言葉が頭に浮かんだ。
そして「将棋というゲームの奥行き、広がり」が「空間全体」の一例として頭をよぎった。
だいたいそういった「理路」を経て思考が進んでいったのではないかと思う。
小島信夫が『残光』の中で引用している『各務原・名古屋・国立』の一節の中で、というよりそこで間接話法のかたちで言及されている『小説修行』の中で、若い人(保坂和志)が老作家(小島信夫)に「記憶というものは、その人の頭の中にあるというよりも、そのまわりの世界にある」と語っているのは、これと同じタイプの記憶のかたち(存在様式)だ。
それを私は「残響型」記憶と名づけて、もうひとつの記憶のかたちである「残光型」記憶と区別して考えてみようとした。
一昨日からつづくこの文章の中で、私が書きたかったのはだいたいそういうことだったはずだ。
「はずだ」というのは無責任な言い方だが、あらためてこの二日間をふりかえってみての率直な実感がそう言わせる。


     ※
ここから先の話題は、『残光』とも『途方に暮れて、人生論』ともいっさい関係がない(最初から関係なかったのかもしれないが)。
「残響型/残光型」を「聴覚型/視覚型」や「音楽型/映画型」などに置き換えてしまうと話は簡単なようだけれども、ことはそれほど単純ではない。
いや「残光型=視覚型/残響型=聴覚型」であれ「残響型=視覚型/残光型=聴覚型」であれ、話は充分に複雑で深くなるとは思うが、ここではもう少し込み入った(その実、底の浅い?)ことを考えてみる。


宇宙開闢のときに轟きわたったビッグバンの鳴動(「光あれ」の言葉?)が、いまなお残響となって宇宙の全時空のうちに反復反響している。
ビッグバン以後に生じたすべてのことが「記憶」として、そこに織り込まれていく(響きあっていく)。
こうした「残響型」の記憶のとらえかたは、たとえば「その人が生まれてくる前から世界はあり、死んでからも世界はありつづける」といった世界観と親和的である。
宇宙開闢の例をもちだすと「黒体放射の残光」などといわれるのがふつうだが、私の語感としてはそれはむしろ「残響」で、「残光」の方は、たとえば夜光物質(長残光性蛍光体)が発する光の比喩で考えている。
漆黒の闇の中で自ら残光を放つ物質。反射光ではなく、自ら発する光でもって自らを現象させる物質。
暗闇の中の焚き火の光の場合とは違って、そこには発光を促す刺激やエネルギー源の供給がない。
しかし、蛍の飛行の跡を示す残光とも違って、それは視覚的錯覚や幻像ではない。
物理学の知識が乏しいので、無茶苦茶なことを書いているかもしれない。
夢を「見る」というとき、その夢の視覚をなりたたせているのはいま述べた意味での「残光」なのではないか。
それは何事かを想起しているとき、そのイメージをなりたたせているものと同類なのではないか。
残響型の記憶が「空間全体」の知覚にかかわるものだとすれば、残光型の記憶は「個物」の想起にかかわるものなのではないか。
時空のなかにすでに織り込まれたものではなくて、そのつど初めて個物の中から(刻々と宇宙が開闢するようにして?)たちあらわれる「記憶」。
それは言語行為が創造する「記憶」と同類なのではないか。
ボルヘスの次の文章の中にでてくる「記憶」とはそういう種類のものだったのではないか。


《たとえば、ある人が自分の敵を愛したとする。その時、キリストの不死性が立ち現れてくる。つまり、その瞬間、その人はキリストになるのである。われわれがダンテ、あるいはシェイクスピアの詩を読みかえしたとする、その時われわれはなんらかの形でそれらの詩を書いた瞬間のシェイクスピア、あるいはダンテになるのである。ひと言でいえば、不死性というのは、他人の記憶のなか、あるいはわれわれの残した作品のなかに存続しつづけるのである。(略)重要なのは不死性である。その不死性は作品のなかで、人が他者のなかに残した思い出のなかで、達成されるものである。(略)音楽や言語に関しても、それと同じことが言える。言語活動というのは創造的行為であり、一種の不死性になるものである。わたしはスペイン語を使っているが、そのわたしのうちには無数のスペイン語を用いた人々が生きている。(略)われわれはこれからも不死でありつづけるだろう。肉体の死を迎えた後もわれわれの記憶は残り、われわれの記憶を越えてわれわれの行為、行動、態度といった歴史のもっとも輝かしい部分は残ることだろう。われわれはそれを知ることができないが、おそらくはそのほうがいいのだ。》(『ボルヘス、オラル』)


     ※
何を書いているのか(誰が考えているのか)自分でもよく判らないままに書き(考え)つづけていくのは、やっぱり居心地が悪い。
今回、残光型の記憶(もうそんな勝手な言葉は使わなくてもいいと思うが)についてあれこれ妄言をくりだすことで、最終的には映画が観客にもたらす体験(あるいは「映画的記憶」)へと話をつないでいくつもりだった。
でも、そこにたどりつく前に居心地の悪さが高じて、これ以上書きつづける意欲がうせてしまった。
続きは他日(明日のことかもしれない)を期す。